音素文字の歴史
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そしてガーディナーは、自身の仮定に基づいて碑文のひとつを翻訳した。この語は、母音を補って翻字するとバアラト (baʿalat) となる。バアラトは、シナイ地方での女神ハトホルのセム語での呼び名で、「女主人」を意味する[6]

スフィンクス像につづいてイスラエルレバノンでなされた発見によれば、音素文字を発明したのがフェニキア語ヘブライ語の祖にあたるカナン語[7]を話していたとカナン人であったことがうかがえる。カナン人はクレタ人、ヒッタイト人、エジプト人、バビロニア人のそれぞれの帝国を行き来して交易をしていた。カナン人は既存の表記体系にとらわれずに、より速く書け、たやすく学べ、曖昧さのない文字体系を求めた。Andrew Robinsonは、証明はされていないもののありうることとして、カナン人が最初の音素文字を創造したと書いている[6]

考古学者のJohn DarnellとDeborah Darnellは、エジプト西部の砂漠地帯の街道沿いで2つの碑文を発見した。これらの碑文は、表音的な文字で表記されているものとしては最初期のものである。文字の字形が表すものには、古代エジプト語とセム語を読める人々にとってはなじみ深いものも見られる[8]
セム系文字

エジプトの青銅器時代中期の文字体系は、いまだ完全に解読されていない。とはいえ、これらの文字体系は、少なくとも部分的に(おそらく完全に)音素的な文字体系のようである。最古の例は、エジプト中部で見つかった紀元前1800年頃のグラフィティ(落書き)(en)である[9]。このセム系文字は、エジプト語の子音記号にとどまらず、ほかのエジプトヒエログリフもいくつか採り入れていて、おそらく全部で30文字ほどになる。また、字にセム語の呼び名がついている[10]。例を挙げると、ヒエログリフのper(エジプト語で「家」)がbayt(セム語で「家」)となっている[11]。ただ、これでセム語を表記するときに、それぞれの字形が頭音法の原則によって呼び名の最初の子音だけを表す純粋に音素的な文字体系であったのか、または祖先のヒエログリフのように複数の子音の連なりやさらには語をも表すことがあったのか、については、はっきりしていない。例えば、「家」の字形で b だけを表していた(beyt「家」の b)のかもしれないし、子音 b と子音の連なり byt の両方を表せた(エジプト語でこの字形が p と pr の両方を表し得たように)のかもしれない。ともあれ、この文字体系からカナンの文字体系が派生する過程で、もっぱら音素だけを表すものとなり、もともと「家」を表していたヒエログリフが b だけを表すものとなった[12]
原カナン文字碑文と音素文字の発展

原カナン文字のまとまった碑文がふたつ、エジプト南部にある王妃の谷の北方のワディ・エル・ホルで発見されている。これらの碑文に含まれる多くの字の形はエジプトの文字の形に非常に近いかまたはそっくりで、初期の子音文字体系とエジプトの表記体系とのつながりにさらなる確証を与えるものである。Gordon J. Hamiltonによれば、これらの碑文は、音素文字発祥の地がまさにエジプトであるということを示す傍証にもなるという[13]

この原カナン文字は、エジプト語の原型と同様、子音のみを表記するアブジャドと呼ばれる文字体系である。

原カナン文字はその後、フェニキア人へ22文字へ整理されて受け継がれ、フェニキア文字となった。
音素文字の発展主な音素文字の系統。文字体系の名称の「文字」は省略した。出典は画像の説明を参照。
ウガリト文字

シリアの北海岸のウガリト(現在のラス・シャムラ)の地で、原シナイ文字の時代の後の紀元前14世紀頃には音素文字が存在していたというたしかな証拠が見付かっている[14]。ここで発見されたバビロニアの粘土板には、一千を超す楔形文字の記号が刻まれている。この記号はバビロニア語のものではなく、文字の異なりはわずか30である。およそ12の粘土板には、記号の一覧がある順序で刻まれており、この記号の順序はアラム文字フェニキア文字アラビア文字ヘブライ文字で伝統的に行われていたものとほぼ一致する[15]
フェニキア文字

フェニキア文字は、早くも紀元前15世紀にはビブロス (Byblos) で使われていたが、22の字から成っており、母音を表記しなかった。フェニキア文字は原カナン文字(北セム文字)から発展したもので、字の形だけが変化している。フェニキア文字はフェニキア商人の手によって急速にひろまり、地中海沿岸地域にまで達した ⇒[1]。時を経て、フェニキア文字からは主要な3つの音素文字が生まれる。ギリシア文字ヘブライ文字アラビア文字である[2]。

フェニキア文字は、ティフナグ文字(ベルベル語の文字体系)をも生み出した。
セム系アブジャドの末裔たちフェニキアのアブジャドの末裔である4種の音素文字の比較。左からラテン文字ギリシア文字、元になったフェニキア文字、ヘブライ文字アラビア文字

アラム文字は、紀元前7世紀にフェニキア文字から発展してきたもので、ペルシア帝国の公用の文字体系ともなった。これは、近東からアジアにかけて使われている現代の音素文字ほとんど全ての祖であるようだ[要出典]。

現代のヘブライ文字は、アラム文字の局地的な変種に起源を持つ(もともとあったヘブライの音素文字はサマリア文字として現存している)[16][17]

アラビア文字は、アラム文字から今日のヨルダン南部のナバテア文字を経た末裔である。

紀元後3世紀以降使われるようになったシリア文字は、パフラヴィー文字からソグド文字を経て、北アジアの種々の音素文字へと発展した。突厥文字(en)他にも可能性があるとされているものはウイグル文字蒙古文字満州文字などである。

グルジア文字の起源ははっきりわかっていないとされるが、ペルシアのアラム文字の一族であるとされる。(あるいはギリシア文字の可能性も考えられている。)

アラム文字はまた、インド亜大陸ブラーフミー系文字(en)の祖であることもほぼ間違いないとされている。これは、ヒンドゥー教仏教とともにチベットモンゴルインドシナマレー諸島へと広まった。(中国日本では、仏教を受容したものの、すでに独自の文字文化を持っていたのではないかと考えられているため、従来の表語文字音節文字を使いつづけた)。

ギリシアへの伝播

古代のある時期に、ギリシア人らはフェニキア人の文字体系を借用して自身のものとした[18]。フェニキア文字をギリシアにもたらした功績はしばしばフェニキア人のカドモスに帰せられ、また、ギリシア文字はフェニキア文字の影響で生まれたものであるため、 ⇒Phoenicia.orgによれば、フェニキア文字は西洋のあらゆる音素文字の祖であるという ⇒[3]。フェニキアに暮らすギリシア人らが文字を借用し、ギリシアで使われるようになったというのは、ありうることである[19]
ギリシア文字

ギリシア文字の字はフェニキア文字と同じ呼び名を持ち、両者の順序も同じである[18]。しかし、ギリシア人はこの文字体系をアルファベットに変えた。

ギリシア語はインド・ヨーロッパ語族に属し、セム諸語(アラビア語、フェニキア語、ヘブライ語など)と比べると、母音により重きを置く。


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