韓国光復軍
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提案が受け入れられた後、軍事委員会は多くの中国人将校を光復軍の総司令部と各支隊に派遣して強化した[14]。終戦直前には総司令部将校56人のうち、派遣された中国人将校は43人を占めた[14]。また10個処あった総司令部は参謀処、総務処、政訓処の3個に縮小して副司令と副参謀長を増設し、1942年10月に西安から重慶に移転した[9]

1942年3月1日、第5支隊長の羅月煥が暗殺。暗殺容疑で隊員など20余名が逮捕され、このうち朴東雲、李何有、金東洙、李海平、李道淳、高如順、金松竹、金容珠ら8名が死刑または懲役刑を宣告された[15]。羅月煥と彼らは徴募活動と教育訓練を通じて第5支隊を発展及び運営していた中心人物であり、この事件で幹部を全て失ったことにより、第5支隊の活動はほぼ麻痺状態に陥った[16]。暗殺から1か月後の4月1日に第5支隊は既存の第1、2支隊と統合し、新たに第2支隊を編成した[16]

1942年5月、朝鮮義勇隊が光復軍に編入して第1支隊に改編された[17]

なお、アメリカ政府の国務省公式歴史記録(1945年2月5日付)によれば、極東局長ジョセフ・ウィリアム・バランタインが?介石の国民党政府要人邵毓麟(中国語版)と面談したときのこととして、当時中国重慶には2,000名もの日本軍の朝鮮人部隊(朝鮮人日本兵)捕虜が存在し、これらが韓国光復軍と地下工作員の訓練に協力していたという[18]。邵はアメリカ軍から韓国光復軍へ武器供与をできないかと尋ねているが、バランタインは国防省が回答すべきこととして否定的な発言をし、独立運動よりも個人的な利益と野心の実現に熱心な韓国人(朝鮮人)リーダー達の態度を問題視していた。邵も実際に朝鮮半島に潜入してみて、リーダー達の嫉妬と協力体制の欠如を目の当たりにして、中国での活動との協力の必要を説いたという[19]
終戦まで

1941年12月8日真珠湾攻撃が起きてアメリカが参戦すると、中国は対日宣戦布告を行い、連合軍の一員となりたかった臨時政府も12月10日対日宣戦布告をしたが、これは日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は無かった。

1941年3月から5月下旬にかけて華北に移動した朝鮮義勇隊は4度に分けて黄河を渡り、八路軍根拠地であった太行山に逃亡した。隊内で密かに活動していた中国共産党の指示であった。そのため、国民党管内に取り残された隊長の金元鳳と残った義勇隊の一部は軍事組織として有名無実化し、国民政府軍事委員会の命令により、1942年5月、国民政府軍事委員会傘下の韓国光復軍に編入されることになり、残っていた義勇隊は第1支隊に改編され、既存の第1、2、5支隊は統合して第2支隊に編成した[20][9]。第1支隊長は金元鳳(別名・金若山、副司令兼任)、第2支隊長は李範?が就任した。参謀長には軍事員会高級参謀の尹呈輔少将(保定軍校4期、中国陸軍大学8期)が就いた。なお1945年6月に金弘壹が就任するまで、参謀長は尹呈輔や趙徳樹[21] などの中国人の国民革命軍所属の現役将校が歴任した。

光復軍は作戦計画として中国戦線での招募・訓練などと戦闘部隊への編入、韓国内での地下軍組織及び破壊工作、太平洋方面で派遣司令部設置と韓国人同胞への再訓練、韓国飛行隊の設立などを構想した。

1943年9月、印緬戦区工作隊(印緬戰區工作隊、???????)[1] をインドに派遣[22]。宣伝や尋問などの工作を担当した。任務を完了した工作隊は1945年7月に重慶へ帰還した[22]

1944年、日本軍の長沙作戦に多くの志願兵、学徒兵、徴兵1期兵など多くの朝鮮出身の軍人が投入されたが、彼らが光復軍の宣伝活動で臨時政府の存在を知ると、戦闘の度に脱走が続出した[23]。長沙には第1支隊第3区隊があったが、長沙作戦の終わった1944年末には、先任同志2名、学徒兵12名、志願兵2名、徴兵1期159名の計175名の部隊に成長した[23]。1945年3月の時点で光復軍の兵力は514人(中国人将校43人を含む)であったという[10]

一方、光復軍は中国に派遣されていたアメリカ戦略事務局(OSS、のちの中央情報局)と協約を結んで特務工作訓練(イーグル・プロジェクト、Eagle Project、??? ??)を始動させ、3月にアルバート・ウェデマイヤー中国戦区司令官の最終承認を得た[24]。当時、朝鮮人学徒陸軍志願兵制度の実施で朝鮮青年が日本軍に編入され南洋群島と中国戦線に配置されていたが、張俊河らその一部が日本軍を脱出して光復軍に参加。


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