韓国光復軍
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結成から解体まで日本軍とは交戦は無かったものの、終戦頃(1945年4月)で、日本軍満洲国軍出身者を含めて339人いたと認定されている[2]。しかし、アメリカの資料では光復軍は中国国民党軍の中の一組織で200未満と記されている。

2014年5月、韓国は、光復軍第2支隊の所在地だった西安市にその活動を称える記念碑を設置した。

2015年、北朝鮮の対南宣伝媒体である『わが民族同士』は、光復軍は戦後に越北した金元鳳が主導していた蒋介石の中華民国傘下の右派武装団体であり、韓国が僅かな人員しかいなかったこと光復軍が「祖国解放の結果を導いた」と主張していることを「自画自賛・美化を越えた完全な歴史歪曲だ」と批判した[33]
階級

光復軍は、創設時は武官と兵員に分けられ、武官は将官・領官・校官・下士にそれぞれ正・副・参の等級があり、兵員には一等・二等・三等であったが1944年10月23日の国務会議により校官は尉官に、兵員は上等・一等・二等に変更された[8]
各部隊の活動
第1支隊

第1支隊は軍事特派団員を中心に編成された[34]。支隊長は李俊植、幹部は盧泰俊、安椿生、盧福善、趙仁済、李錫華、金紫東、李建佑、李英如であった[34]。李俊植と盧福善は1939年11月に軍事特派団員として派遣され、盧泰俊、安椿生、趙仁済は中国軍を除隊して参加し、李錫華、金紫東、李建佑、李英如は西安で軍事特派団に加わっていた[35]。構成員のほとんどが中国各地の軍官学校を卒業し、満州の朝鮮革命軍で活動したり、中国軍に服務した経歴を持っており、彼らを基礎要員として第1支隊が発展していく予定だった[35]

第1支隊発展のため、兵力拡大が課題であり、召募活動を通じて為さなければならなかった。召募活動は軍務部が主管し、第1支隊は徴募処第1分処となり、1941年3月に幹部全員が山西省に進出、臨汾を中心に召募活動を展開した[36]

山西省は中国軍第2戦区の管轄地域で、第1分処は第2戦区司令官の閻錫山の協力の下、山西省大同を拠点として敵占領地域である太原石家莊などを中心に召募・宣伝活動を展開した[37]。この活動は1942年4月の支隊改編まで続いた。

1942年、朝鮮義勇隊の編入を契機に光復軍の全面的な改編が行われ、第1支隊は第2、5支隊と統合され、新たに第2支隊となった。

1942年7月、編入された朝鮮義勇隊で第1支隊が編成。光復軍に編入された義勇隊隊員は重慶にいた40名(中国人5名含む)と宋旭東、于自強、胡建(金在浩)、黄民(金勝坤)、李海鳴、金尚徳、金仁哲、金俊、李斗山など各地に派遣されていた工作隊員や華北移動時に脱出した者を含めて約50名であった[38]

1942年12月5日、金元鳳が支隊長に就任[38]

重慶に支隊本部、湖北省老河口浙江省金華にそれぞれ第1区隊と第2区隊が置かれた[39]

支隊本部の役割は、隊員の軍糧需給事務と区隊の活動を指揮・監督する行政的役割に加えて、召募活動と隊員の教育・訓練を通じて兵力を拡大増強させることであった[39]。しかし後方の重慶に位置した関係でこのような活動に限界があり、さらに朝鮮民族革命党が臨時政府に参加することで軍事的活動より政治的活動に注力したことで第1支隊本部は大きく発展しなかった[39]。朝鮮義勇隊出身者が中心となった本部は徐々に非義勇隊出身者を充てられていった[40]

第1支隊傘下の2個区隊は、本部から人員を派遣して編成したわけではなく、朝鮮義勇隊時代に各地に派遣した工作員を中心に編成した[41]

第1区隊がいた老河口は当時、中国軍第5戦区司令部があり、ここには朝鮮義勇隊の第2支隊長李益星と支隊付の陳元仲ら15名が配属されて活動していた[41]。ここに第1区隊が置かれたのは、朝鮮義勇隊の活動地域に加え、華北に進出していない隊員が残っていたためとされる[42]

区隊長金俊ら6名が第1区隊創設要員だったと見られ、彼らの任務は隊員を確保して区隊を拡大強化することであり、そのために召募活動を展開した[42]。編成初期には工作基盤が造成され、5つの召募工作班を組織して召募活動を展開した[42]。召募活動の他、第5戦区と交渉して集めた人員が幹部訓練を受けられるようにした[42]


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