韓国の国旗
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『Flags of the Maritime Nations, 5th.ed., Bureau of Navigation, Secretary of the Navy, Washington.D.C., july 1882』に収録された「Corea」の「ensign」。49ヶ国150旗の1つとして掲載されている。2003年にソウルの古書店ARTBANKが入手した。その刊行年が正しければ、現存する資料の中で最も早く太極旗を伝えたものとなる。

太極旗を初めて国旗として使用したのは朝鮮国(李氏朝鮮)である。だが、李氏朝鮮が太極旗を自国の国旗とするまでの経緯については史料毎に差異があり、不明確な点が多い。

1875年江華島事件が勃発した時点で、李氏朝鮮にはまだ国旗が無かった[2]。その後、李氏朝鮮の国旗制定が具体的な問題として浮上したのは、1880年日本から帰国した修信使・金弘集らが、清国の駐日公使館参事官・黄遵憲によって書かれた『朝鮮策略』を持ち帰ってからである。『朝鮮策略』はロシア南下政策に対して朝鮮がアメリカと連合すべきとする書物であるが、ここで初めて朝鮮の国旗の図案についての言及があり、朝鮮が清の属国であることを強調するため、清国国旗[broken anchor](黄龍旗)をそのまま朝鮮国旗として使用することを主張した。そこで、李氏朝鮮は国旗制定にあたり、どの色の龍旗が良いか清国の助言を求めたところ、北洋大臣李鴻章から「朝鮮国王の御旗である『龍を描いた四角い旗』[注釈 4](畫龍方旗[3])が清の黄龍旗と似ているのでこれを国旗として使用すればよい」という詔書を下賜された[4]。その際、五爪龍(爪が五つの龍)は天子中国皇帝)の象徴であるため、冊封国である朝鮮は旗に描く龍の爪を四つにするよう具体的に指示されていたが、李氏朝鮮は最終的に龍旗を国旗として用いなかった[4]

具体的な国旗の図案について最初の議論が行われたのは、1882年に清国から米朝修好通商条約締結を斡旋するため訪朝した馬建忠が、条約の締結式で使う李氏朝鮮の国旗を巡って李朝官吏と会談した時である。その筆談の内容を記録した『清国問答』によると、5月22日旧暦4月6日)に行なわれる米朝修好通商条約の締結式にあわせ、李朝官吏の李應浚(朝鮮語版)が金弘集の指示を受け前日に国旗の図案を作成していた。だが、締結式当日に馬建忠は申?(朝鮮語版)と会談し、李應浚の国旗案と黄龍旗をそのまま朝鮮国旗とする案を否定した上で、朝鮮人の服色である民の白、臣の青、王の赤にちなんだ「白底青雲紅龍」の図案を提案した[5]。実際に朝鮮国旗として馬建忠の提案した旗が締結式で使われたかは不明だが[6]、締結式後の5月27日旧暦4月11日)に李朝側は青雲と紅龍は作るのに手間がかかるため、赤地に青と白が交わった円の図案はどうかと馬建忠へ提議し、これに対して馬建忠から個人的意見として地は白地の中央に半紅半黒の太極の印を置き、その周囲に朝鮮八道を象徴する八卦を配した古太極図の図案を提唱されている[7]。この馬建忠による太極八卦の国旗デザインは李朝側に受け入れられ、後の大韓民国国旗の雛形となっていった事から、韓国の歴史研究家である韓洪九は「太極旗のデザイナーは馬建忠」としている[4]

朝鮮の国旗として用いられた旗を最初に確認することができるのは、1882年9月に朴泳孝が訪日した時である。同年7月の壬午事変を機に、李氏朝鮮は日本との間で済物浦条約を締結し、その規定に従い謝罪の使節(特命全権大使兼朝鮮修信使)として朴泳孝らを日本へ派遣した。その際、朴泳孝は約4ヶ月間に渡る訪日中の出来事を日記(『使和記略』)として記しており、その中に太極旗の図案変更の経緯に関する記述がある。『使和記略』によると、9月20日旧暦8月9日)に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、当初馬建忠が提唱した太極文様の周りに八卦を描いた太極図の旗を持っていた。しかし、朴泳孝が船内でイギリス領事W. G. アストンイギリス人船長ジェームスに対し、八卦と太極文様を描いた太極図を見せ国旗としての出来について相談した所、船長から「八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便である」と助言を受けた。そのため、朴泳孝は八卦から四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案を提案し、船中で大・中・小3本の太極旗を作ったという。9月25日8月14日)に神戸へ到着した一行は宿泊先の西村旅館で初めて完成した太極旗を掲げ、10月3日8月22日)には太極旗小本と共に国旗制定を本国に報告したとされる[8]

ただし、日本の日刊新聞時事新報」は1882年10月2日付の紙面でこの太極旗を紹介しているが、太極旗を国旗とした経緯について『清国問答』とは異なる内容を掲載している。

「...馬建忠が朝鮮の國旗は支那に從ひ三角形の地に龍を書くべし本國支那は?色を用るども朝鮮は支那の東方に當る邦たるを以て東は色を貴ぶの意により地を用ふべしと指示したるに國王は大に之を憤み決して支那の國旗に倣ふべからぬとして四角形の玉色地に太極の圖(二つ巴繪)を赤にて書き旗の四隅に東西南北の易卦を附けたるを自今朝鮮の國旗と定むる旨沙汰せられたりとあり...」
大意
「...(清国の)馬建忠が「朝鮮の国旗は清国の国旗[broken anchor]に倣って三角形の青字にを描いたものにすべきである。清の国旗は黄色であり、朝鮮は清の東方に位置する国であるため、東を表す青色を旗の地色にすべきである[注釈 5]


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