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ローマ兵士にはchiral(英語版)と呼ばれる左右の形が同じではない靴が支給された[23]聖書には靴への言及がある[24]
中世から近代まで

中世のピレネー山脈ではエスパドリーユがカジュアルな靴として一般に使われた。これは黄麻で編んだ靴底に布製のアッパーを被せたもので、足首を縛る布製の紐が付いていることが多かった。この名前はフランス語のエスパート(英語版)草から来ている。この靴は13世紀初頭にスペインカタルーニャ地方から広まり、この地区の農村で農民が主に着用していた[17]ダッチ・パターン(1465年頃)。ベルギーオーステンデ近くにあるWalraversijde(英語版)遺跡から発掘された

中世に作られた靴の多くは、革の内側を外に向けたアッパーを底に繋ぎ、端を縫って接続する回転靴(英語版)製法で制作された。一部の靴は足の周りの革を絞めつけてうまくフィットさせるためにトグルのフラップやドローストリング(英語版)を付ける形で制作された。現存する中世の靴の多くは左右対称で足にしっかりフィットする形になっていた[25]。1500年頃になると回転靴製法は、固い靴底へ縫い付けてアッパーが裏返らなくなったウェルテッド・ランド製法に置き換わった[26]。回転靴製法は現代でもダンス用など一部の特殊な靴に使われている。

15世紀になるとヨーロッパではパッテン(英語版)が男女の間で流行した。これは現代のハイヒールの祖先[27]と見られている。一方で貧民や下級市民、新天地から連れてきた奴隷などは裸足だった[19]。15世紀中頃のヨーロッパでクラコー(英語版)が流行した。この名前はポーランドの首都クラクフが起源だと考えられていたために付けられた。polaineと呼ばれる長い爪先があるのが特徴で、クジラのヒゲで支えられ、歩くのに邪魔になるため膝に結び付けていたとの説もある[28]。また15世紀のトルコで18?20cm程の高さのショパン(英語版)が作られた。これらの靴はヴェネツィアをはじめとするヨーロッパ中で富や権力を示すステータスシンボルとして人気が高まった。16世紀中にカトリーヌ・ド・メディシスメアリー1世といった王族が背を高く見せるためにヒールの高い靴を着用し始めた。1580年頃には男性たちも着用し、権力者や富裕層たちはこの靴をwell-heeled(裕福系)と呼んだ[27]

最終的に底付け製法の近代的な靴が発明された。17世紀からはほとんどの革靴が底付け製法になった。この製法は今日でもフォーマルシューズの基本となっている。1800年頃までは左右を区別しない形でのウェルト・ランド製法が主流だった。このような靴は今日ではストレートと呼ばれる[29]。右用と左用の靴を区別する製法はあまり一般的にならなかった。
産業革命以降グルジア時代(英語版)の靴職人 The Book of English Trades(1821)より

18世紀中旬になると製靴業界は問屋制家内工業として広く商業化された。地域の小さな製靴企業によって製造された靴が大きな 倉庫に集められるようになった。

19世紀までは製靴は伝統工芸だったが、19世紀の末頃になると工程のほぼ全てが機械化され、大きな工場で生産されるようになった。大量生産による経済的効率性の高さにもかかわらず、工場で製造された靴は靴職人が製造した靴と見分けがつかなかった。

機械化への第1歩はナポレオン戦争中にエンジニアのマーク・イザムバード・ブルネルが踏み出した。彼はイギリス陸軍の兵士が使うブーツを大量に生産するために製造機を開発した。1812年にアッパーと靴底を金属のピンや釘で固定する装置を考案した[30]ヨーク公爵の支援を受けて靴が製造され、その頑丈さと耐久性の高さと安さが評価されて陸軍で用いられた。同年にリチャード・ウッドマン(英語版)がネジやステープラーを用いた手法の特許を取得した。バタシーにある工場を訪問したリチャード・フィリップス卿(英語版)はブルネルの製造システムを次のように評している。19世紀後半には製靴産業は機械化されて工場で作られるようになった。リンにあるB. F. Spinney & Co.の工場の心臓部(1872)

靴工場の別の建物に案内されると、この建物も同様にとても工夫が凝らされており、ピン工場のような高度なレベルでの分業が実現されていた。全ての工程が美しく正確に効率化されていた。靴は25個の工程に分けて作られ、丈夫で完成度の高い靴を1日に100足製造している。全ての工程は機械の巧妙な働きによって処理され、全てのパーツは高い精度で均一かつ正確に製作される。作業員は1つの工程に専念するため、勉強したり教えたりする必要がなく、本職の職人でなくてもよいため、数時間の研修を受けることが可能であれば負傷した兵士などでもよいという事を意味している。政府への納入品は1足当たり6シリング6ペンスの契約となっているが、これは過去に購入されていた、比べ物にもならない粗悪品より、少なくとも2シリング安い[31]

しかし1815年に戦争が終了すると労働力が余って賃金が安くなり、また軍需による靴の需要もなくなったため、工場で大量生産する意味が無くなってしまい事業を畳むことになった[30]

クリミア戦争の時にも似たような現象が起こり、機械化による大量生産に対する需要が再び高まり、今回はそれが長く続いた[30]レスターの靴職人であるトーマス・クリックが1853年に新しい製造機の設計で特許を取得した。この製造機では金属のリベットを靴底へ打ち込むのに金属の板を用いた。この工程は製造効率を大幅に高めた。1850年代中頃には皮をなめしたりカットするのに蒸気機関を導入した[32]1896年にMcClure's(英語版)へ掲載したThe Regalの広告


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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