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この靴は13世紀初頭にスペインカタルーニャ地方から広まり、この地区の農村で農民が主に着用していた[17]ダッチ・パターン(1465年頃)。ベルギーオーステンデ近くにあるWalraversijde(英語版)遺跡から発掘された

中世に作られた靴の多くは、革の内側を外に向けたアッパーを底に繋ぎ、端を縫って接続する回転靴(英語版)製法で制作された。一部の靴は足の周りの革を絞めつけてうまくフィットさせるためにトグルのフラップやドローストリング(英語版)を付ける形で制作された。現存する中世の靴の多くは左右対称で足にしっかりフィットする形になっていた[25]。1500年頃になると回転靴製法は、固い靴底へ縫い付けてアッパーが裏返らなくなったウェルテッド・ランド製法に置き換わった[26]。回転靴製法は現代でもダンス用など一部の特殊な靴に使われている。

15世紀になるとヨーロッパではパッテン(英語版)が男女の間で流行した。これは現代のハイヒールの祖先[27]と見られている。一方で貧民や下級市民、新天地から連れてきた奴隷などは裸足だった[19]。15世紀中頃のヨーロッパでクラコー(英語版)が流行した。この名前はポーランドの首都クラクフが起源だと考えられていたために付けられた。polaineと呼ばれる長い爪先があるのが特徴で、クジラのヒゲで支えられ、歩くのに邪魔になるため膝に結び付けていたとの説もある[28]。また15世紀のトルコで18?20cm程の高さのショパン(英語版)が作られた。これらの靴はヴェネツィアをはじめとするヨーロッパ中で富や権力を示すステータスシンボルとして人気が高まった。16世紀中にカトリーヌ・ド・メディシスメアリー1世といった王族が背を高く見せるためにヒールの高い靴を着用し始めた。1580年頃には男性たちも着用し、権力者や富裕層たちはこの靴をwell-heeled(裕福系)と呼んだ[27]

最終的に底付け製法の近代的な靴が発明された。17世紀からはほとんどの革靴が底付け製法になった。この製法は今日でもフォーマルシューズの基本となっている。1800年頃までは左右を区別しない形でのウェルト・ランド製法が主流だった。このような靴は今日ではストレートと呼ばれる[29]。右用と左用の靴を区別する製法はあまり一般的にならなかった。
産業革命以降グルジア時代(英語版)の靴職人 The Book of English Trades(1821)より

18世紀中旬になると製靴業界は問屋制家内工業として広く商業化された。地域の小さな製靴企業によって製造された靴が大きな 倉庫に集められるようになった。

19世紀までは製靴は伝統工芸だったが、19世紀の末頃になると工程のほぼ全てが機械化され、大きな工場で生産されるようになった。大量生産による経済的効率性の高さにもかかわらず、工場で製造された靴は靴職人が製造した靴と見分けがつかなかった。

機械化への第1歩はナポレオン戦争中にエンジニアのマーク・イザムバード・ブルネルが踏み出した。彼はイギリス陸軍の兵士が使うブーツを大量に生産するために製造機を開発した。1812年にアッパーと靴底を金属のピンや釘で固定する装置を考案した[30]ヨーク公爵の支援を受けて靴が製造され、その頑丈さと耐久性の高さと安さが評価されて陸軍で用いられた。同年にリチャード・ウッドマン(英語版)がネジやステープラーを用いた手法の特許を取得した。バタシーにある工場を訪問したリチャード・フィリップス卿(英語版)はブルネルの製造システムを次のように評している。19世紀後半には製靴産業は機械化されて工場で作られるようになった。リンにあるB. F. Spinney & Co.の工場の心臓部(1872)

靴工場の別の建物に案内されると、この建物も同様にとても工夫が凝らされており、ピン工場のような高度なレベルでの分業が実現されていた。全ての工程が美しく正確に効率化されていた。靴は25個の工程に分けて作られ、丈夫で完成度の高い靴を1日に100足製造している。全ての工程は機械の巧妙な働きによって処理され、全てのパーツは高い精度で均一かつ正確に製作される。作業員は1つの工程に専念するため、勉強したり教えたりする必要がなく、本職の職人でなくてもよいため、数時間の研修を受けることが可能であれば負傷した兵士などでもよいという事を意味している。政府への納入品は1足当たり6シリング6ペンスの契約となっているが、これは過去に購入されていた、比べ物にもならない粗悪品より、少なくとも2シリング安い[31]

しかし1815年に戦争が終了すると労働力が余って賃金が安くなり、また軍需による靴の需要もなくなったため、工場で大量生産する意味が無くなってしまい事業を畳むことになった[30]

クリミア戦争の時にも似たような現象が起こり、機械化による大量生産に対する需要が再び高まり、今回はそれが長く続いた[30]レスターの靴職人であるトーマス・クリックが1853年に新しい製造機の設計で特許を取得した。この製造機では金属のリベットを靴底へ打ち込むのに金属の板を用いた。この工程は製造効率を大幅に高めた。1850年代中頃には皮をなめしたりカットするのに蒸気機関を導入した[32]1896年にMcClure's(英語版)へ掲載したThe Regalの広告

1846年にミシンが発明され、製靴の新たな機械化手法として広まった。1850年代後半頃には主にアメリカとヨーロッパで製靴業界の近代化シフトが起きた。1856年にアメリカ人のライマン・ブレイクが靴用のミシンを発明し、1864年に完成形となった。McKayと提携し、McKayのミシンとして知られるようになり、ニューイングランド全体に瞬く間に広まった[33]。これらの発明により製造工程におけるボトルネックが解消され、さらにペグ打ちや仕上げなど多くの工程が次々に自動化されていった。

マサチューセッツ州ローウェルに住むハンフリー・オサリバンが1899年1月24日にゴム底のブーツや靴に関する特許を取得した[34]

20世紀中頃までには素材がゴム、樹脂、合成布などへ進化し、また接着剤を用いた技術が向上したことにより、これまでの伝統とは全く異なる製法が可能になった。かつては主要な材料であった革は、高価でフォーマルな靴では現在も使われているものの、運動靴ではほとんど又は全く使われなくなった。手縫いで丁寧に仕上げられていた靴底は現在では機械で縫製されるか又は接着されるようになった。ゴムや合成樹脂などの新素材で作られている多くの靴は腐食せず、土に返りにくくなった。大量生産された靴は埋め立て処分場で土にかえるまで1000年を要すると見積もられている[35]。2000年後期にはナイキ(英語版)などの一部の企業が問題を認識し、生分解性(英語版)のある素材を用いた靴を製造するようになった[36][37]

2007年の時点で世界の靴業界のマーケットシェアは1074億米ドルで、2012年末に1229億米ドルになると予想されている。63%が中国で製造されており、世界の靴の輸出の40.5%、売り上げ総額の55%を占めている。一方で高価格帯の市場はヨーロッパがほぼ独占している[38]
靴の組成
履き口

足を差し入れる部分を履き口という。履き口には装飾付きのもある[1]
履き口の高さ

ローカット

ローファーや紐無しの靴に多い


オックスフォード

紐ありの靴に多い、正装に用いる。


ハイライザー

紐ありの靴に多い、正装に用いる。


靴紐

(丸紐の方がやや改まった物になるが、紐が解けやすく靴に合うのが難しい)

蝋引

シリコン樹脂で覆われた紐、耐久性を重視した作りが多い。


石目(編み紐)

編んだ紐、伸縮性に優れている。


ガス引き(ガス紐)

結びやすくできているものが多い。



平紐(平紐はややカジュアルになるが、紐が解けにくく靴に合いやすい)

ガス引き(ガス紐)

石目(編み紐)

スニーカーやワークブーツに使われることが多い。


なお、靴紐の両端はアグレットに加工されていることが多い。
靴紐の結び方

シングル

フォーマルやビジネスに用いる結び方、片方だけを締め付ける。


パラレル

フォーマルやビジネスに用いる結び方、両側を締め付ける。


オーバーラップ

スニーカーなどに用いる結び方、締めにくいが緩みにくい。足高の人にも合いやすい。


アンダーラップ

スニーカーなどに用いる結び方、締めやすいが緩みやすい。靴と足が合いやすい。


鳩目(アイレット、小穴)紐靴において紐靴を通すための穴で、一般的な既製品では5個が多い。


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