この裁判所では、上訴も抗告もできず、判決は一度きりの絶対的なものであった。死刑の判決が出た場合は被告人の財産は国に没収された[注釈 5]。ただし一般に誤解されているが、求刑は死刑だけではなく、一般の刑法に規定された多様な刑が宣告でき、流刑や禁錮労働、強制労働など、量刑は個別の案件によってさまざまだった。また有罪であっても微罪であると判断されれば、違警罪裁判所[注釈 6]に移送することもできた。量刑が有罪の場合は平等に死刑のみとされたのは、プレリアール22日法ができた革命裁判所末期の1か月半の間のみ。
その最後の1か月半だけで1,376人が革命裁判所に死刑判決を受けて処刑されたが、プレリアール22日法が制定される前はパリの革命裁判所で死刑判決を受けてギロチンで処刑された人数は1,251人だった。
パリ以外での地方には別の特別法廷が設けられ、革命裁判所は刑事・民事・軍事の法廷とは別のものだが、反革命容疑者法の成立以後は刑事裁判所で死刑になった恐怖政治の被害者の方が多かった。また派遣議員による大量殺戮はさらにこれの上をいった。恐怖政治の被害者は桁違いの割合で地方(つまり革命裁判所の管轄外)で殺されていた。ジロンド派の処刑以後、革命裁判所の最大の役割は政敵の抹殺であった。
テルミドールの頃にはすでにパリの監獄は超過密状態で、8,000名以上の容疑者を収監していたが、重要人物ではない一般の容疑者の判決確定率は1割程度に満たず、ほとんどは裁判もなくただ収監されている状態だった。パリでの審議が進まなかった原因は、手順が簡略化されても個別に裁判が行われていたことと、一つずつ首を落とすギロチンが迅速な大量処刑には向いていなかったことがある[注釈 7]。
クーデター以後、パリの収監者は釈放され、革命裁判所も判事などの人員が入れ替えられ、8月10日には大幅に改変されて弁護も再開されて機能が弱体化した。しかし国民公会の末期にも今度は逆の白色テロの場として利用された。最終的にはテルミドール派により、1795年5月31日に廃止された。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ヴァンデの反乱の鎮圧においてナントの虐殺を指揮した派遣議員で、その行き過ぎた所行、大量殺戮を非難され、公安委員ロベスピエールによってパリに召喚された。その後、国民公会で裁かれて議員特権を剥奪され、自分が提案した革命裁判所に送られて、ギロチン処刑された
^ ジャコバン派の三巨頭の1人。公会議員。法案成立時にフランスを指導していた臨時行政会議の事実上のトップであった。革命裁判所の設置に大きな影響力を発揮したが、後には自らもこの法廷で裁かれて、ギロチン処刑された
^ 元検事で裁判官を歴任後、革命裁判所の裁判長となり権勢をふるったが、テルミドール反動で逮捕され、フーキエ・タンヴィルらとともに処刑された。
^ ロベスピエール派の処刑が1日の処刑数で最多であったのは皮肉だった。7月28日、76の首が落とされたのが最多
^ 初期には財産のない親族に没収財産は返還されたが、ヴァントーズ法成立後は死刑だけでなく追放刑を受けた者も、所有財産は全部無条件で没収され、貧者に再分配されることに改まった
^ 法定の刑罰の種類により,犯罪を重罪・軽罪・違警罪の3つに区分し、そのうち拘留または科料にあたる最も軽い犯罪を違警罪という
^ 地方の派遣議員の大量処刑では、裁判はほぼ行われず、集団で死刑が宣告され、溺死や銃殺、大砲散弾、銃剣などを用いて執行されていた
出典^ 河野健二 & 1989年, p.335
参考文献
マチエ, アルベール; 市原豊太, ねづまさし共訳 (1989年), 『フランス大革命 』, 上・中・下, 岩波文庫
河野健二, (編) (1989年), 『資料フランス革命』, 岩波書店, .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-00-002669-0
関連項目
恐怖政治
プレリアール22日法
公安委員会 (フランス革命)
保安委員会
表
話
編
歴
フランス革命
年表
アンシャン・レジーム
原因(英語版)
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共和政
総裁政府
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主要事件 1788年
屋根瓦の日(1788年6月7日)
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1789年
『第三身分とは何か?』刊行(1789年1月)
レヴェイヨン事件(1789年4月28日)
全国三部会の召集(英語版)(1789年5月5日)
国民議会(1789年6月17日?7月9日)
球戯場の誓い(1789年6月20日)
憲法制定国民議会(1789年7月9日?1791年9月30日)
バスティーユ襲撃(1789年7月14日)
大恐怖(1789年7月20日?8月5日)
人権宣言(1789年8月27日)
ヴェルサイユ行進(1789年10月5日)
1790年
高等法院の廃止(1790年2月?7月)
貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)
聖職者民事基本法(1790年7月12日)
1791年
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月20日?21日)