また、共産党指導部が作成した31年テーゼの内容はきたる革命を社会主義革命と規定し、労農派の一段階革命論に近いものであったため、コミンテルンからの批判を受け、翌1932年5月には31年テーゼを否定し「二段階革命論」に基づく「32年テーゼ」が発表された。党はこのテーゼを金科玉条のごとく信奉し、「天皇制打倒」のスローガンを全協などの合法組織に強制するなど、当局に弾圧の口実を与えるような指導が行われた(結果、全協は1933年5月には治安維持法第1条適用結社となり非合法化された)。1932年10月には上海からコミンテルンの密使鈴江言一が来て、風間に上海に来るように指示した。その前に大会を開催する必要があった。党大会は同年10月29日から30日、熱海・来宮で行われることになったが、これはすでに会場を設営した松村から共産党取締りの中心の警視庁特高課長毛利基に通報されていた。警視庁は極秘裡に一網打尽の検挙態勢をつくった。
そして、32年テーゼによる党の方針を徹底化するため熱海市の別荘において全国代表者会議が開かれたが、この会議を察知した警察が1932年10月30日早朝に急襲、銃撃戦の末に11人の幹部一同が検挙された(熱海事件)[2]。また、同日、風間・紺野・岩田らも、それぞれのアジト周辺でつぎつぎに検挙されたため党中央部は再び壊滅した(このうち岩田は警察取り調べ中の拷問により死亡した)。この前後の党員、シンパの検挙者数は、東京を含む三府十八県において2200人を数え、翌年1月の段階で220人以上が起訴[3]。ここに「非常時共産党」は壊滅した。
また風間にアジトを提供していた司法官補坂本忠助や、さらに坂本の線から警察情報を入手し、党に提供していた尾崎陞東京地裁判事らも検挙され、これは「司法部赤化事件」として当局に大きなショックを与えた。なお松村こと「スパイM」も検挙されたが、以後表舞台から消えている。
熱海事件後の11月、宮川ら検挙を免れた中央委員は「臨時中央部」を組織したが、翌12月の検挙により早くも壊滅した。
銀行ギャング事件を含む一連の事件は報道が禁じられ、1933年(昭和8年)1月18日に解禁された[4]が、共産党が銀行強盗という犯罪行為に手を染めていたという事実は、大衆に共産党への不信感を与えるとともに獄内の党幹部たちに多大な衝撃をもたらす結果となり、翌1933年半ばの佐野学・鍋山貞親の転向声明に始まる党員の大量転向に道を開くことになった。また党再建の試みはこの後も山本正美・野呂栄太郎・宮本顕治・袴田里見ら、いわゆる「リンチ共産党」指導部によって進められるが、党中央にスパイが潜入していたことは組織内部での相互不信を増幅させ、「多数派」分派の形成や共産党スパイ査問事件の重要な伏線となった。
脚注[脚注の使い方]^ 大森の銀行ギャングも計画的と判明『東京日日新聞』昭和8年1月18日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p350 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 熱海会議出席の十一人、銃撃戦で検挙『東京日日新聞』昭和8年1月18日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p349-350 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 二百二十一人を起訴『中外商業新報』昭和8年1月19日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p351 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 一年間の検挙者、シンパ含め七千人『東京日日新聞』昭和8年1月18日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p349 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
関連書籍
風間丈吉 『「非常時」共産党』 三一書房、1976年
伊藤晃 『転向と天皇制:日本共産主義運動の1930年代』 勁草書房、1995年 ISBN 4326300957
第三章「大量転向の一前提」参照。
立花隆 『日本共産党の研究』 講談社、1978年
外部リンク
加藤哲郎「「非常時共産党」の真実 : 1931年のコミンテルン宛報告書」『大原社会問題研究所雑誌』第498号、法政大学大原社会問題研究所、43-64頁、2000年5月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}hdl:10086/13438。
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