静岡藩
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明治2年(1869年)6月20日、家達が版籍奉還により知藩事となるにあたり、「府中」は「不忠」に通じるとして藩名を静岡藩に改めた。命名したのは静岡学問所頭取向山黄村である。同年8月28日より十勝国上川郡中川郡河東郡十勝郡も静岡藩の管轄となった。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で静岡藩は廃藩となり、静岡県となった。

藩主家である徳川宗家は、明治17年(1884年)に公爵を叙爵されている。
藩政

内藤信成時代の駿府藩の内情は短期間のため、史料が少なく、藩政は詳しく分かっていない。

頼宣時代の駿府藩は、大御所である家康の下、その側近によって東海道の整備・金山開発・検地・駿府城の改築などが行われ、藩政の基礎が固められた。なお、家康は駿府を江戸の西を守る要衝と考えていたようで、駿府城は家康時代に大規模な改築がなされた。

忠長時代の駿府藩は、忠長の乱行が目立っているが、その重臣である朝倉宣正鳥居成次らによって統治は無難に行われた。

幕府領時代の駿府は、駿府城代として幕府直属の大身旗本が赴任し、この駿府城代が、駿府定番駿府在番駿府加番等とともに番方を務める一方で、駿府町奉行代官役方を務めた。

家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲した物が大半だった。また、家達が幼少のため、準中老に大久保一翁、幹事役に勝海舟山岡鉄舟らが任じられ、政務が行われている。ちなみに政府との交渉は、新政府寄りである勝によって行われた。しかし、江戸時代の幕府領・旗本領の総計約700万石と比べて10分の1の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住し、その生活扶助のために藩の財政は早くも悪化した。そのため旧幕臣の渋沢栄一が起用され、財政再建が行われた。
歴代藩主
内藤家

4万石。譜代
信成

家康直轄領

慶長12年7月3日から元和2年4月17日まで。

紀伊徳川家

50万石(駿河、遠江、東三河)。親藩
頼宣 - 慶長14年(1609年)?元和5年(1619年)

幕府領

元和5年から寛永2年まで。

駿河徳川家

55万石。親藩。
忠長

幕府領

寛永10年から慶応4年まで。

徳川宗家

70万石。徳川本家。
家達

脚注
注釈^ 旧・三ケ日町

出典^ 和歌山県史 1990, p. 48.
^ 和歌山県史 1990, p. 49.
^ 和歌山県史 1990, pp. 49?50.
^ a b c 和歌山県史 1990, p. 50.
^ a b 和歌山県史 1990, p. 51.
^ 和歌山県史 1990, p. 52.
^ a b 和歌山県史 1990, p. 53.

参考文献

和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史』和歌山県〈近世〉、1990年8月31日。NDLJP:9576602。 (要登録)

外部リンク

『駿府藩
』 - コトバンク

『静岡藩』 - コトバンク

先代
駿河国遠江国三河国
(行政組織としては江戸幕府)行政区の変遷
1868年 - 1871年 (府中藩→静岡藩)次代
静岡県(駿河国)
浜松県(遠江国)
額田県(三河国)










大政奉還から廃藩置県までの間に存在した
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月


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