静岡県
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富士山の他、浅間大社・村山浅間神社(村山修験者)・三保の松原、駿河湾、東海道、富士川などが描かれている[19]
遠江国
次の3つの国造を統合遠淡海国:磐田市に比定久努国:袋井市久能に比定素賀国:掛川市大須賀に比定
駿河国
次の2つの国造を統合珠流河国:伊豆を含む富士川以東に比定。廬原国:大井川と富士川の間に比定。
伊豆国
駿河国成立から程なく分立した。伊豆諸島を含む。伊豆造国の比定地については異説が多い

記紀においては、ヤマトタケルが蝦夷征伐に赴いた時、駿河国でだまし討ちに遭う[20]。その時に草薙剣で草を薙ぎ払って難を逃れたというヤマトタケル伝承が記されており、その地を「草薙」と呼んだ。また、賊を焼き払った野原を「焼津」と呼んだという。

律令制で中央集権国家が形成されるに従って、現在の静岡県内に有った国造は、伊豆国、駿河国、遠江国という3つの令制国に合併・再編された[21]

律令制下には、遠江国には白輪官牧(しろわのかんまき)があり、その後荘園化し白羽荘と称した。故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよぶと推定される。駿河国には岡野(大野)・蘇弥奈の2官牧がある。前者は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、後に大岡牧、あるいは大岡荘と呼ばれる荘園になった。後者の位置は明確でないが、現静岡市街地の西北、安倍川と藁科川とに囲まれた牧ヶ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と思われる。伊豆国では、官牧の存在が明確ではないが、現伊豆市修善寺町に牧之郷という地名がある。後にこれらの地域に武士団が簇生した[22]

伊豆国は畿内から遠いために、流刑地の一つとされていた[23]。一方で、駿河国には藤原南家の末裔(まつえい)の多くが住み着き、土着したようである。

遠江国の国分僧寺は磐田市中央町に、国分尼寺はその北にあったことが確かめられている。駿河国分僧寺は静岡市大谷の片山廃寺がその有力候補とされており、国分尼寺は不明である。伊豆国分僧寺は三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町にあった。
中世伝源頼朝像神護寺蔵)

平治元年(1159年)、平清盛に敗退した源義朝は東国に敗退する最中に謀殺され、義朝三男の源頼朝は平家方に捕らえられるが助命され、伊豆国韮山(伊豆の国市)に流刑された。豆駿遠三国はいずれも平家の勢力圏であったが、頼朝は伊豆において在庁官人北条氏の庶流北条時政の娘政子を室として婿になり、伊豆の反平家方の武士たちから支持を受けると治承4年(1180年)には以仁王の平家討伐令旨に応じて挙兵する(治承・寿永の乱)。

治承・寿永の乱は豆駿遠三国のみならず相模国甲斐国など東国圏から西国にかけて展開するが、三国内における平家勢は治承4年8月23日に相模石橋山の戦い(小田原市)において頼朝勢を撃退するが、8月25日には駿河目代橘遠茂の軍勢が富士山麓において甲斐源氏の勢力に敗退し(波志田山合戦)、甲斐源氏の勢力と安房へ逃れた頼朝が三浦氏の後援を得て勢力を挽回すると反平家勢は再び三国方面へ侵攻し、平家勢は10月14日には富士山麓における鉢田の戦いにおいて敗退し、さらに10月20日の富士川の戦いにおいて大敗し、三国は頼朝や甲斐源氏の勢力圏となった。

頼朝が鎌倉幕府を開府すると三国の所領も恩賞として御家人に安堵された。伊豆は北条氏が守護となったが、治承・寿永の乱においては特に甲斐源氏の功績が大きく、駿河は武田信義、遠江は安田義定が守護となったが、頼朝は甲斐源氏の粛清を行い、三国は北条氏の影響下に置かれた。建久4年(1193年)5月28日には富士の巻狩が行われ、5月28日には曾我兄弟の仇討ちが発生する[24]

鎌倉幕府におて源氏将軍が途絶すると北条氏は執権として幕政を主導する執権政治を開始し、三国は北条氏の所領における中心となる。承久3年の承久の乱において三国の武士は幕府勢の主力である東海道軍に加わり活躍し、乱の平定後に三国の御家人は西国にも恩賞を獲得し、勢力を拡大した。

頼朝や北条氏は寺社を振興し、三国においても頼朝の信仰した伊豆山神社や北条氏の氏寺である願成就院など幕府にゆかりのある寺院が分布している。三国においては天台宗真言宗の旧仏教の影響が強かったが、鎌倉新仏教においても臨済宗の高僧である円爾(聖一国師)や南浦紹明(大応国師)は駿河の出身で三国でも臨済寺院が分布しており、日蓮宗の宗祖である日蓮は伊豆において布教を行っており、日蓮が甲斐国南部の身延(身延町)に草庵を構え信仰の拠点となると駿河・伊豆においても門徒が拡大し、日興大石寺(富士宮市)・北山本門寺(富士宮市)など岳南地方において日蓮宗の拠点寺院を建立した。

南北朝時代に入ると、今川氏守護大名として駿河国府中(駿府)に入った。14世紀後半に入ると今川氏は遠江国の守護職も兼ねて勢力を伸長する。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに今川記の原文があります。

戦国期には今川氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)らの力によって一族の抗争を終わらせ、戦国大名への道を歩んだ。また、応仁の乱の後に、散逸した貴族達が多く逗留した。一方の北条早雲は、伊豆国の堀越公方を攻め滅ぼし、それを足がかりに関東の支配へ乗り出す。その後、今川氏と(早雲の息子である)氏綱後北条氏)の主従関係が崩れ、富士川以東の地域をめぐって争いが生まれる(河東の乱)。今川義元

駿府は今川領国の中心として繁栄し、今川義元は後北条氏との争いを収束させると、甲斐の武田氏、相模後北条氏と三国同盟を形成し駿河国、遠江国、三河国の3国を支配した。永禄3年(1560年)、尾張国織田信長との桶狭間の戦いにおいて当主義元が敗死し今川氏真に当主交代すると三河においては松平元康(徳川家康)が独立するなど今川領国は動揺する。外交関係においても武田氏と手切となり、永禄11年(1568年)に武田信玄と徳川家康が協調して今川領国へ侵攻し、今川氏は相模後北条氏の支援を得るが領国は崩壊した。

その後は武田信玄と徳川家康は今川領国の割譲を巡り対立し、さらに徳川氏と協調し武田氏に敵対する後北条氏や越後上杉氏、徳川氏と同盟関係にありつつ武田氏とも友好的関係を持ち将軍義昭を擁する尾張の織田信長など旧今川領国を巡る情勢は複雑に推移するが、元亀年間に武田氏は駿河を確保すると、後北条氏との同盟も回復する。その後、武田氏は矛先を遠江・三河方面に向け家康や信長と対決し畿内情勢にも影響を及ぼしたが(西上作戦)、元亀4年には信玄が死去し事態はいったん収束する。

信玄の死後、信長は畿内において政権を確立し家康も岡崎から浜松に拠を移し勢力を回復し、武田氏では勝頼に当主交代すると再侵攻を繰り返すが、天正3年の三河において織田・徳川勢が武田勢に致命的打撃を与えた長篠の戦いと、天正9年の高天神城陥落を契機に駿遠二国における武田氏の勢力は後退し、天正10年(1582年)に武田氏は織田・徳川勢により滅ぼされた。

同年、本能寺の変において信長が横死し旧武田領国が空域化すると家康は本国の三河・遠江のみならず武田遺領である甲斐・信濃国・駿河を確保し(天正壬午の乱)、5国を支配し東国における一大勢力に成長した。
近世駿府城

豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすと、1590年には家康は駿府から江戸に移され、代わって駿府には中村一氏が入り、遠江国には掛川に山内一豊堀尾吉晴が入り、それぞれ織田家の家臣が入った。


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