靖難の変
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しかし永楽帝はこれに加算して、「鎮國將軍從一品,輔國將軍從二品,奉國將軍從三品,鎮國中尉從四品,輔國中尉從五品,奉國中尉從六品」とした[15]

一方で、永楽帝は自分で武力で政権を奪取したことに鑑み、政権の安定のため、辺境の王は順次、内地へと改封し、それから諸王の兵権を削減していった。永楽元年に代王の護衛と官員を削った。永楽4年には斉王の護衛と官員を削り、ほどなくして廃して庶民とした。永楽6年に岷王の護衛と官員を削った。永楽10年に遼王の護衛を削った。永楽15年に谷王を廃して庶民とした。永楽19年に周王は情勢を見て、自ら護衛を返納した,洪武帝の時代に13人いた兵権を持つ親王のうち、永楽帝は6人の兵権を削った。これとあわせて、靖難の役の功臣には大封を与え、多くの経験を持つ武官を手元に確保することで、中央政権を強化し、中央と諸藩との軍事的な勢力比を根本的に変えた[16]

こうして永楽帝は建文帝の目的だったことを実現したが、目先の問題を解決しただけだった。永楽帝の次男の漢王朱高煦と三男の趙王朱高燧は依然として護衛を有していた。そして宣徳元年の朱高煦の乱(中国語版)は、親王が兵を持つ危険性を再度証明した。乱を平定した宣徳帝は、その威信でもって大部分の藩王たちに護衛を手放させ、宗室を統制下に置いた。以後、宗室と中央政権との矛盾点は、軍事的な緊張関係から、大量に増加した俸禄による財政圧力に変化していった[16]
北京遷都と大寧割譲

洪武年間、明の北方防衛は、(朱棣や朱権のような)辺王たちに多くを負っていた。靖難の変の後、永楽帝はその辺王たちを内地に移したが、その結果、華北の守りが手薄になった。唐朝の「守外虚内」、宋朝の「守内虚外」の教訓があったことを鑑みても、金陵(南京)を首都にして、遠方に置いた将領に辺境の守りを任せるというのは危険だった。「天子守国門」は問題を解決できる。また、南京では建文帝に従っていた勢力の影響が大きい(建文帝の遺臣は永楽帝の統治に不満を抱いていた)という別の問題もあった。政治的に判断すれば、朱棣の大本営であった北平は京師(首都)に適していた。また、もともとのモンゴルの軍事的な脅威も無視できない問題だった。これらを考慮した結果、永楽帝は北京遷都を決定した。

永楽元年(1403年)冬二月、朱棣は北平北京と改め、順天府と命名した[17]。その後、各地の富民を北京へと移した[18]。北京は行在と称した。永楽年間、北京への遷都事業は継続された。北京城が建てられ、宮殿が建てられ、運河を通して交通が整備された。永楽18年(1420年)になって、北京皇?と北京城が完成し、ついに遷都が宣言され、以後、南京は「留都」となった[19]。これ以後、1928年から1949年まで国民政府が南京を首都とした以外は、北京が中国の首都となり、政治の中心は北へと移った。

朱棣は靖難の初期に大寧衛の全軍(朶顔三衛を含む)を麾下に納めていた。朶顔三衛はその後の作戦に重要な働きをなした。そこで朱棣は即位後に、寧王を南昌に封じ、永楽元年3月には大寧衛を朶顔三衛の功績への褒賞として与えた[20][21]

大寧衛は遼・蒙・冀、つまり現在の遼寧省内モンゴル自治区河北省の交点にあたり、遼東鎮?薊州鎮?宣府鎮と弓形に連なる地域の中心で、軍事的には相当に重要だった。洪武13年(1380年)に回復され、衛所が設立されていたが、ここで廃止された[22]。大寧衛は遼東鎮・薊州鎮・宣府鎮などを防衛するための前哨拠点であり影響は大きかった。大寧衛の喪失により、関内から遼東に行くには、山海関を通って錦州に行くしかなくなった。この後、(特に、土木の変の後)、薊州・遼東での戦いは絶たなかった。正統年間の土木の変と嘉靖年間の庚戌の変ではモンゴル人勢力が大寧から侵攻してきた。それがゆえに大寧の割譲は、後世からは否定的な評価がなされることが多かった[23]
内閣の設立、特務機関、宦官の重用詳細は「明の内閣」、「錦衣衛」、「東廠」、および「第三次宦官時代」を参照

政務を効率的に処理するために、洪武三十五年(1402年)八月の初め、朱棣は解縉(中国語版)・黄淮文淵閣とし機務に参画させた。その後、内閣は7人まで拡充された。これが内閣制度の開始であり、明朝の政治で大きな役割を果たすようになり[24]、清朝でもこの制度を踏襲した。

また、朱棣は造反して帝となったため、大臣に対しては大いに疑心を持っていた。そこで、洪武年間に廃止されていた錦衣衛を復活させ、特務機関の活動を再開させた。その指揮者に任じられた紀綱(中国語版)は、永楽帝時代における大物の権奸となった。永楽帝はさらに永楽十八年には東廠を設立して、信頼している太監(宦官)を指揮者とした。これは特務による支配を強めるとともに、宦官の地位も高めた。明代においては、特務機関の優越がほぼ一貫しており、大きな特徴となっている。

靖難の変に際して、朱棣は宦官から多くの援助を受けたため、太祖が定めた宦官の執政禁止を即位後に変更し、宦官を重用するようになった[25]。結果として、明朝では大航海を行った鄭和のような著名かつ有能な宦官も出たが、一方で司礼監や東廠のような宦官が権力を握る部局の地位が高くなり、地方の軍権における鎮守太監(中国語版)や採?(中国語版)(皇室の物資の購入)の監督など、重要な職務も宦官が担当するようになり(必ずしも永楽帝時代に設置されたものばかりではなかったが)、これは後世の国の禍の種となった。
地方経済への影響

靖難の変による戦乱は華北と華東の全域に広がり、繰り返された戦いによって淮河以北の経済は壊滅的な打撃を受けた[26]。即位後に永楽帝は、河北、河南、山東などの戦場となった省の税を減免して、民力の回復に努めた[27]
文化

永楽帝は建文帝に忠誠を貫いた大臣達を誅殺したほか、建文帝およびそれに殉じた臣下たちの一切の書や著作の焼却を命じた。それらの作品を私蔵する者があれば殺害した。これによって、方孝孺の著作である「周礼考次」「大易枝辞」「帝王基命録」「文統」なども焼却された[28]
評価

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兵力、物量のいずれにおいても燕王軍を凌いでいた明軍が燕軍に敗れ、永楽帝のクーデターが成功した理由として、皇帝側には洪武帝時代のたび重なる粛清で有能な将軍が少なかったためと言われる。燕王側は北方のモンゴルに対する防備に従事していた精鋭軍で、軍師の姚広孝、丘福朱能張玉や、永楽帝の次男の朱高煦といった有能な武将や参謀と評価される人材が揃っていた。これに対し、建文帝には側近の斉泰黄子澄のほか、李景隆李文忠の子)や方孝孺といった文官しかいなかった。また、建文帝の温和な性格や永楽帝の軍事的資質も指摘される。
脚注^ 『明史』巻七:寧獻王權,太祖第十七子。洪武二十四年封。逾二年,就藩大寧。大寧在喜峰口外,古會州地,東連遼左,西接宣府,為巨鎮。帶甲八萬,革車六千,所屬?顏三衛騎兵皆驍勇善戰。權數會諸王出塞,以善謀稱。
^ 『明史』巻三:遺詔曰:「朕膺天命三十有一年,憂危積心,日勤不怠,務有益於民。奈起自寒微,無古人之博知,好善惡惡,不及遠矣。今得萬物自然之理,其奚哀念之有。皇太孫允?仁明孝友,天下歸心,宜登大位。内外文武臣僚同心輔政,以安吾民。喪祭儀物,毋用金玉。孝陵山川因其故,毋改作。天下臣民,哭臨三日,皆釋服,毋妨嫁娶。諸王臨國中,毋至京師。諸不在令中者,推此令從事。」
^ 『明通鑑』巻十一:至是燕王自北平奔喪,援遺詔止之,於是諸王皆不悦,流言煽動,聞于朝廷。謂子澄曰:「先生憶昔東角門之言乎?」對曰:「不敢忘。」於是始與泰建削藩之議。
^ 『明鑑綱目』巻一:(洪武三十一年)六月,戸部侍郎卓明請徙封燕王棣於南昌,不聽。
^ 『明鑑綱目』巻一:乃命曹國公李景隆以備邊為名,猝至開封,圍王宮,執之以歸。……乃廢?為庶人,竄蒙化。諸子皆別徙。
^ 『明鑑綱目』巻二:(建文元年)夏四月,湘王柏自焚死,齊王榑、代王桂有罪,廢為庶人。柏膂力過人,握刀槊弓矢,馳馬若飛。至是有告其反者。帝遣使即訊,柏焚其宮室,彎弓躍馬,投火中死。榑累歴塞上,以武功喜,時與燕通,為府中人所告;會代郡亦上變,乃廢二王為庶人,錮榑京師,幽桂大同。
^ 『明鑑綱目』巻二:(建文元年)六月,岷王?有罪,廢為庶人:西平侯沐晟奏?不法,廢為庶人,徙?州。


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