靖国神社
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招魂社であるので、氏子地域は存在しない(当社所在地周辺は築土神社日枝神社の氏子地域にあたる)[8][9]

創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が[10]、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍陸軍省)と同海軍海軍省)が祭事を統括した[11](陸海両軍を以下「旧陸海軍」等と略記する)。

1946年昭和21年)に、日本国政府の管理を離れて東京都知事認証により、宗教法人法単立宗教法人となった[12]

国家神道の代表的施設である。

祭神

幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の内外の事変戦争等、天皇を頂点とした国家体制のために殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)はを数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する[13]

本殿での祭神の神座は当初は1座であったが、1959年(昭和34年)に創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙疆神社張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

日本の旧植民地出身の軍人・軍属も祭祀対象となっている。これに対し、日本に植民地として支配された台湾や韓国の遺族の一部が自らの先祖を対象から外すよう求める動きがある(靖国神社問題#旧日本植民地出身の軍人軍属の合祀[14]
祭神の内訳

祭神の主な内訳は、以下の通り(2004年(平成16年)10月17日現在)。戦争・事変名は靖国神社自身の表記に拠る[15]年代順ソート。

戦争・事変名柱数備考
1868年-1869年/戊辰戦争明治維新0007751/7751柱新政府軍側のみ。遊就館の靖国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。(彰義隊新撰組を含む)旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となる。

ただし、官軍に転じた米沢藩松本誠蔵堀尾啓助(勘定頭・役所役筆頭)や、新選組にいたが終始勤王派を貫いた御陵衛士は合祀されている[16][17]
1877年/西南戦争0006971/6971柱政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。
1874年/台湾出兵
(別名:征台の役)0001130/1130柱遊就館の靖国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
1875年/江華島事件0000002/2柱 [* 1]
1882年/壬午事変0000014/14柱 [* 2]
1882年/京城事変
甲申政変)0000006/6柱 [* 3]遊就館の「靖国の神々の一覧表」には、壬午事変、江華島事件、京城事変の記載はない。
1894年-1895年/日清戦争0013619/1万3619柱
1900年/義和団事件0001256/1256柱遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある。
1904年-1905年/日露戦争0088429/8万8429柱常陸丸事件英国人船員は対象外。ただし、6月15日斎行の常陸丸殉難記念碑前での慰霊祭では、等しく慰霊されている。
1914年-1918年/第一次世界大戦0004850/4850柱
1920年/青山里戦闘0000011/11柱
1928年/済南事件0000185/185柱
1930年/霧社事件
1931年06月/中村大尉事件外0000019/19柱 [* 4]
1931年09月-1932年02月/満洲事変0017176/1万7176柱
1937年-1945年/支那事変
日中戦争)0191250/19万1250柱
1941年-1945年/大東亜戦争
(太平洋戦争)2133915/213万3915柱第一次インドシナ戦争[* 5]などの「太平洋戦争後のアジア独立戦争」で戦没した者も含む。また、3万人余りの台湾人日本兵戦死者のうち26,000人、朝鮮人日本兵戦死者の約2万1000人も祀られている。
計246万6584柱


^ 『一等水夫故松村千代松招魂社ヘ合祀』 〔国立公文書館>内閣>公文録>朝鮮講信録>公文録・明治八年・第三百七巻・朝鮮講信録(三)〕 アジア歴史資料センター レファレンスコード A01100130400 - 「故松村千代松招魂社合祀ノ儀上請 山口県士族 一等水夫 故松村千代松 右之者本年九月中雲揚艦朝鮮江華島ニ於テ暴撃ヲ受ケ候節奮激突戦台場ニ乗入逐ニ深手ヲ負ヒ帰艦之後之力為メ同月二十二日致死去実ニ愍然之儀ニ付来ル明治九年一月招魂社例祭之節合祀被仰付候様仕度此段」。
^ 『故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件』 (国立公文書館>内閣>公文録>陸軍省>公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月?十一月・陸軍省) アジア歴史資料センター レファレンスコード A01100233700 - 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」。
^ 『陸軍省稟告故磯林歩兵大尉外五名靖国神社ヘ合祀ノ件』 (国立公文書館>内閣>公文別録>公文別録>公文別録・朝鮮事変始末・明治十七年・第二巻・明治十七年) アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023658800。
^ 『第1511号 7.4.23 靖国神社臨時大祭祭式次第書並に先着諸員の件(2)』(1932年(昭和7年)4月23日) (防衛省防衛研究所>海軍>海軍省公文備考類>昭和7年>公文備考 昭和7年 C 儀制 巻7) アジア歴史資料センター レファレンスコード C05021974300。
^ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月。

社名参道

正字による表記は「靖國神社」。神社名にある「靖国」は『春秋左氏伝』第6巻僖公23年秋条の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名したもので、1879年(明治12年)に改称された。当初の東京招魂社の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」可能性があるために廃されたというが[18]、名称変更後も「招魂祭」は続けられている。因みに同年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」とある[18]


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