青野武
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北海道旭川市[3]で誕生後、青野家に貰われる[15]

小・中学生の時、学芸会や文化祭に出ており、小学4、5年頃に友人の実家が経営していた映画館で上映されていた映画を観るほど映画が好きだった[16]。また、映画と一緒に旅回りの芝居をしていたが、「よく覚えていなかった」という[16]

中学校進学後、後述の家庭環境もあり、孤独感や苦しみから抜け出すため野球部に所属し、野球の練習に熱中していた[13][16]。「どうせ生みの親から見放された人間なら、1人で立派に生きていけるプロ野球選手になってやろう」と思っていた[13]
キャリア

当時の容貌がハンサムだったことから、中学3年生の時に担任の教師に「君のさ、ファーストで球を受ける時の体の線、実に美しいんだワ、今度の文化祭で演劇やってみないかい?」と言われて本格的に芝居を始める[6][13][16]。中学時代に菊池寛の『父帰る』の長男・賢一郎役を演じていたが、それはそれで終わりだった[17]

北海道旭川東高等学校[18]に進学後の高校1年生の時も野球部に所属し野球をしていたが、耳を患って激しいスポーツを禁じられてしまう[13][16]。その時に演劇部の先輩の女性に「あなたの中学の時の文化祭観たんだワ、とっても良かった。あなた素質あるわ、演劇部に入らない?」と言われ、演劇にはまり込む[16]。その時に演じたのが、ヘンリック・イプセン作『幽霊』のオズワルド役で、全国演劇コンクールで三位に入賞した[16][17]。翌年の高校2年生の時にジャン=ポール・サルトル作『出口なし』のガルサン役を演じ、今度は二位を獲得[6][13][16][17]。その当時、東京都千秋実がしていた薔薇座で演出をしていた人物が北海道に来て、青野らに演技指導してくれた[17]。青野にはこの芝居は難しいため、さっぱりわからなかったが、その人物の言うとおりにしていた[17]。翌年、調子に乗って高校3年生で演出まで担当していたところ、圏外だったという[6][16]。その時、NHKなどで書いていたライターが北海道に帰っており、審査員をしていた[17]。終わってから、審査員の「僕は上京して夢破れ、挫折して都落ちしたが君達の前途は洋々だ。僕達の分まで頑張ってもらいたい」という言葉に勇気づけられ、上京を決意したという[16][17]

本屋の店頭で当時、出始めた週刊誌をめくっていたところ、俳優養成所の記事が載っていた[16]。そこには俳優座養成所、民芸水品演劇研究所、舞台芸術学院[10]などがあったが、「俳優座と民芸はアルバイト不可」、「舞芸は地方の人物が多くアルバイトしながら学んでいる」とあり、「もう舞芸しかない」と思い、同高校卒業後は家出同然の旅立ちで単身上京[16][19]。同芸術学院に願書を貰うため、玄関に立ったが誰もいなかったという[16]。その時、芝居の稽古中の声が聞こえて、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという[6][16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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