青野武
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北海道旭川東高等学校[18]に進学後の高校1年生の時も野球部に所属し野球をしていたが、耳を患って激しいスポーツを禁じられてしまう[13][16]。その時に演劇部の先輩の女性に「あなたの中学の時の文化祭観たんだワ、とっても良かった。あなた素質あるわ、演劇部に入らない?」と言われ、演劇にはまり込む[16]。その時に演じたのが、ヘンリック・イプセン作『幽霊』のオズワルド役で、全国演劇コンクールで三位に入賞した[16][17]。翌年の高校2年生の時にジャン=ポール・サルトル作『出口なし』のガルサン役を演じ、今度は二位を獲得[6][13][16][17]。その当時、東京都千秋実がしていた薔薇座で演出をしていた人物が北海道に来て、青野らに演技指導してくれた[17]。青野にはこの芝居は難しいため、さっぱりわからなかったが、その人物の言うとおりにしていた[17]。翌年、調子に乗って高校3年生で演出まで担当していたところ、圏外だったという[6][16]。その時、NHKなどで書いていたライターが北海道に帰っており、審査員をしていた[17]。終わってから、審査員の「僕は上京して夢破れ、挫折して都落ちしたが君達の前途は洋々だ。僕達の分まで頑張ってもらいたい」という言葉に勇気づけられ、上京を決意したという[16][17]

本屋の店頭で当時、出始めた週刊誌をめくっていたところ、俳優養成所の記事が載っていた[16]。そこには俳優座養成所、民芸水品演劇研究所、舞台芸術学院[10]などがあったが、「俳優座と民芸はアルバイト不可」、「舞芸は地方の人物が多くアルバイトしながら学んでいる」とあり、「もう舞芸しかない」と思い、同高校卒業後は家出同然の旅立ちで単身上京[16][19]。同芸術学院に願書を貰うため、玄関に立ったが誰もいなかったという[16]。その時、芝居の稽古中の声が聞こえて、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという[6][16]。その時に同じ北海道出身の俳優の松山照夫コッペパンをかじりながら、「お前どっから来たの?」と言われ、「北海道です」と答えると、「そうか、北海道か。俺も北海道だ。お前、役者になりたくてでてきたんだべ?悪い事は言わんから、クニに帰れ」と言われたという[6][16]。しかし願書の手続きをはじめ色々面倒をみてもらい、「俺やお前と同じ北海道出身で同期の奴がいるから会わせてやる」と言って、喫茶店へ案内してくれたという[16]。カウンターの中に同期の山田吾一、のちの劇団仲間で先輩の宮内幸平がいた[16]。松山、山田が音頭をとってもらい、歓迎会を開いてくれたという[16]。歓迎会には北海道出身の同芸術学院の人物達が6人程集まり、その中にのちに妻となる女性もいたという[16]。その後、同芸術学院に入学して、演劇を学ぶ[2]。同芸術学院の1年先輩に家弓家正がいる[13]。当時は喫茶店の風月堂サンドイッチマンレストランの出前持ち、バーテンストリップの照明係、アルサロのボーイ等のアルバイトを経験していた[16]


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