本屋の店頭で当時、出始めた週刊誌をめくっていたところ、俳優養成所の記事が載っていた[16]。そこには俳優座養成所、民芸水品演劇研究所、舞台芸術学院[10]などがあったが、「俳優座と民芸はアルバイト不可」、「舞芸は地方の人物が多くアルバイトしながら学んでいる」とあり、「もう舞芸しかない」と思い、同高校卒業後は家出同然の旅立ちで単身上京[16][19]。同芸術学院に願書を貰うため、玄関に立ったが誰もいなかったという[16]。その時、芝居の稽古中の声が聞こえて、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという[6][16]。その時に同じ北海道出身の俳優の松山照夫がコッペパンをかじりながら、「お前どっから来たの?」と言われ、「北海道です」と答えると、「そうか、北海道か。俺も北海道だ。お前、役者になりたくてでてきたんだべ?悪い事は言わんから、クニに帰れ」と言われたという[6][16]。しかし願書の手続きをはじめ色々面倒をみてもらい、「俺やお前と同じ北海道出身で同期の奴がいるから会わせてやる」と言って、喫茶店へ案内してくれたという[16]。カウンターの中に同期の山田吾一、のちの劇団仲間で先輩の宮内幸平がいた[16]。松山、山田が音頭をとってもらい、歓迎会を開いてくれたという[16]。歓迎会には北海道出身の同芸術学院の人物達が6人程集まり、その中にのちに妻となる女性もいたという[16]。その後、同芸術学院に入学して、演劇を学ぶ[2]。同芸術学院の1年先輩に家弓家正がいる[13]。当時は喫茶店の風月堂、サンドイッチマン、レストランの出前持ち、バーテン、ストリップの照明係、アルサロのボーイ等のアルバイトを経験していた[16]。