『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王役を演じていた時は、悪になるところは、異常であり、ディレクターの小松亘弘が「やっぱり、ああいうのは青野だ」と言われていた[17]。その時に「ガアッ」と演じていたことから、周囲に「ウワッ」と顔を背けられてしまったりしていたという[17]。『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王が自分の分身であるピッコロを産み出す場面では「産みの苦しみだ」と力を入れすぎたため、胃を悪くしてしまった[35]。
独創的なアドリブを入れることが多いが、『勇者王ガオガイガーFINAL』のギムレット役は、監督が「青野さんならこんな言い回しをするだろう」と考えて、元からセリフにアドリブを組み込まれた趣向であったため、イントネーションを工夫することでしか対抗できなかった。
吹き替えでの持ち役はマイケル・ペイリンを始めクリストファー・ロイド、ジョー・ペシ、ダニー・デヴィート、ラム・チェンインなどがある。穂積隆信や樋浦勉とは同一作品の別音源で同じ役を演じる機会が多かった[注 2]。
今まで演じていた役で一番好きだったのは『刑事トマ』のトマ役[17]であり、「『刑事トマ』のような、どこか影のある役が一番好き」とのこと[19]。主演のトニー・ムサンテが出演していた『ある戦慄』を見て、ムサンテの異常性格的な演技に魅せられていた[19]。『刑事トマ』のオーディションの時、ムサンテが主演と知って驚き、その後自分がムサンテの吹き替えと決まって再度驚き、同時に嬉しかったという[19]。『刑事トマ』のムサンテは毎回のように変装するため、役柄がバラエティーに富み、吹き替える声にも変化を加えたことから面白かったという[19]。感情が出てくると高めの声になりがちのため、影のある暗い感じを出すため、低め低めに声を出そうと留意したようで、色々声を変えたりしていた[19]。 少年時代は近所のガラスを割ったり、塀を壊したり、小さな子供を泣かすなどの悪ガキであり、「青鬼」というあだ名が付けられていた[13]。当時は雪深い山裾に住んでいたが、小学校入学時に買ってくれたスキーは、高校卒業の日まで買い換えてもらえなかった[13]。そういった環境が悪ガキの道へと向かわせたのかもしれないという[13]。しかし小学6年生の時、近所のおせっかい焼きの少年から、青野が「もらいっ子」であることを聞かされていた[13]。青野は「そんなバカな!」と怒りその少年を殴り倒してしまったが、その後それが真実であることが分かったという[13]。その日まで本当の「とうちゃん」と「おっかあ」とばかり思っていたが、全く血の繋がりの無い人物達と分かった時、身体中の血が一時に逆流する思いがした[13]。その日を境にして、性格は暗くなり、黙ってふさぎ込んでいるような少年になっていったという[13]。 劇団仲間だった肝付兼太と組んで、スナックでバーテンとして働いていたこともある[13]。肝付とはウマが合い、2人でアドリブを連発し、「漫才バーテン」と呼ばれて評判となっていたという[13]。当時は巧みなシェーカー振りが客に受けた[36]。 若い頃は酒癖が非常に悪く、飲みに行った際に酔っ払って他の客とケンカになったが、同行していた富山敬が朝まで介抱してくれたことがあった。1995年にその富山から『ちびまる子ちゃん』のさくら友蔵役を引き継いだ際は、「役が決まった際は複雑な心境だったが、富山敬の名を汚さないように頑張ろうと思った」と語っている[37]。 「芝居で食べていける」とそういう「安心感」を感じたことはなく、若い頃は食うや食わずの生活だった[6]。寂しさを紛らわすためにお酒を飲んだり、何度、北海道に帰郷しようと考えていたという[6]。劇団芸協の運営費を賄うためだったが、50代の頃にアルバイトをしていた時期もあった[6]。 井伏鱒二作の舞台『へんろう宿』に何回か出演していたが、『へんろう宿』を最初に出演した高橋正夫が故郷へ帰郷したため、あずさ欣平が「『へんろう宿』やってみないか。それも動いて演ってみようよ。」という事で、出演したという[15]。
その他エピソード