青野武
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劇団芸協に入団後、あずさは、芝居の演出の他、外国映画の吹き替え、アニメーションのディレクターもしていた縁でまたアテレコの仕事に少しづつ出演させてくれるようになり、徐々に声の出演作品が増えていった[6][13][20]。しかし生活は相変わらずで、ガリ版切りのアルバイトに追われる毎日だったという[20]

声優としては演協プロ[24]河の会[25]江崎プロダクション[26]、オフィス央[27]を経て、青二プロダクションに所属していた[10]
闘病・死去

2003年7月6日にある場所で突然、背中をに蹴られたような激痛が走り、病院で医者に急性大動脈解離と診断される[15]。当時は手術なしで済み、二週間程で退院でき、退院時には医者から「大きな声を出さない事、過激な運動は駄目、ストレスや緊張状態は極力避けること、とにかく血圧が上がらないように。舞台?一番悪いでしょう。今度破裂したら助かりませんよ。」と言われた[6][15]。その時に青野は「先生、言葉を返すようですが、大きな声を出すなと言われても、役者をやっている以上、役によっては出さない訳には参りません。役者をやれないのだったら生きてる甲斐がありません!」と言っていたが、退院後は、出番の多い役は控えて主に演出面での役割が中心だった[6][15]。晩年は声優業は大丈夫だったが、舞台は負担が大きく、体に問題はなかったが、不安はあったという[6]

しかし2010年5月15日解離性大動脈瘤手術を受けたが、6月26日脳梗塞であることが判明して入院。療養で復帰の目処が立たないことから、当時演じていた全ての持ち役を降板した[28]後述)。2年近い闘病生活の末、2012年4月9日午後4時38分、解離性胸部大動脈瘤術後多発性脳梗塞のため、東京都八王子市の病院で死去[29]。満75歳没(享年76)[14][4]

2013年、第7回声優アワード「特別功労賞」を受賞[30]
人物

一人っ子[17]。育ての父は建具指物師だったが、飲んだくれで母を泣かせていた[13][15]。家計は苦しく、その日その日を暮らしていくのが精一杯だったという[13]。妻は女優の板橋真砂子[8]。夫婦そろっての映画ファンであり、妻は『SCREEN』の愛読者[19]。女優の板橋七生は妻の妹[9]。娘がいる[2]

特技はジョギング[10]で、36歳くらいから60歳少し前まで約20年間していた[17]。58歳くらいになったある時、タバコを吸っていた影響で体力が落ちており、つらくてつらくてしかたなかった[17]。そうしていたところ、妻が「あなた、もう年なんだから歩けばいいじゃない」と言われ、ウォーキングに切り換えた[17]。体力作りのために、朝、仕事がない時は、だいたい8キロから10キロくらいウォーキングをしていた[17]。趣味は野球[31]競艇[16]

座右の銘はウィリアム・スミス・クラークの「少年よ、大志を抱け(Boys Be Ambitious)」を挙げており、幼い頃からこの言葉をことあるごとに聞いて育った[6]。役者を目指して上京したが、挫折して夢を断念しそうになった時、この言葉を聞いて頑張っていたという[6]
特色・役柄

声種バリトン[27]。役柄としては悪役や落ち着いた老人役[6]を初め、ひねった役、異常者の役、ハイテンションな役などを演じることが多かった[17][19]


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