その中でも、七曜会に一緒に所属していた高橋正夫との勉強会は楽しく、月に一、二度、高橋の宅で岸田國士の戯曲の読み合わせをしていた[20]。
当時は、色々な意味で、飢えて、その勉強会も、妻と4歳の娘を抱え、役者業だけでは食えなくガリ版切りのアルバイト[6]、雑事に追われ自然消滅し、相変わらずの暗闇の中での手さぐり状態が続いていた[20]。1年程たった頃、再び高橋に会う機会があり、その時に「今芝居を演ってるんだ、観においで。」とチケットをもらい、それが、劇団芸協の芝居で、これが芸協との初めての出会いだった[20]。
ある時高橋に「うちの演出家が僕に言うんだ。あなたの切符でいつも一番後ろの席で、芝居を観ている青年がいる。ひとつ会わせてくれないかってね。どうだい、会ってみるかい」と言われ、その演出家が、あずさ欣平だった[20]。
その時に「会う場所はこちらで決めてくれ」との事で、初めてアルバイトした店の風月堂に決めていた[20]。あずさとは劇場で二、三度見かけただけであり、話ししていたのはこれが初めてだった[20]。その時にあずさは青野の昔の舞台は見ており、あずさから「君、芝居はやらないの?役者を目指して上京したのなら、役者を続けなきゃダメじゃない」、「埋もれさせておくには惜しい人材」と入団を誘ってくれたという[6][13][20]。
演劇活動では、劇団青俳の研究生[13]、七曜会解散後に作品座[21]の所属を経て[注 1]、劇団新劇場[13]などを経て、20代の頃に出会ったあずさ欣平と親交を結び、30歳の時に劇団芸協[19][22][10]に所属した[20]。あずさの他、劇団仲間であった雨森雅司、宮内幸平[15]、田中和実[18]など、死去した友人の遺志を継ぎ、同劇団の主宰を務めた[23]。
劇団芸協での初舞台は久米正雄作『地蔵教由来』となる[20]。
劇団芸協に入団後、あずさは、芝居の演出の他、外国映画の吹き替え、アニメーションのディレクターもしていた縁でまたアテレコの仕事に少しづつ出演させてくれるようになり、徐々に声の出演作品が増えていった[6][13][20]。しかし生活は相変わらずで、ガリ版切りのアルバイトに追われる毎日だったという[20]。
声優としては演協プロ[24]、河の会[25]、江崎プロダクション[26]、オフィス央[27]を経て、青二プロダクションに所属していた[10]。 2003年7月6日にある場所で突然、背中を馬に蹴られたような激痛が走り、病院で医者に急性大動脈解離と診断される[15]。当時は手術なしで済み、二週間程で退院でき、退院時には医者から「大きな声を出さない事、過激な運動は駄目、ストレスや緊張状態は極力避けること、とにかく血圧が上がらないように。舞台?一番悪いでしょう。今度破裂したら助かりませんよ。」と言われた[6][15]。その時に青野は「先生、言葉を返すようですが、大きな声を出すなと言われても、役者をやっている以上、役によっては出さない訳には参りません。役者をやれないのだったら生きてる甲斐がありません!」と言っていたが、退院後は、出番の多い役は控えて主に演出面での役割が中心だった[6][15]。晩年は声優業は大丈夫だったが、舞台は負担が大きく、体に問題はなかったが、不安はあったという[6]。 しかし2010年5月15日に解離性大動脈瘤の手術を受けたが、6月26日に脳梗塞であることが判明して入院。療養で復帰の目処が立たないことから、当時演じていた全ての持ち役を降板した[28](後述)。2年近い闘病生活の末、2012年4月9日午後4時38分、解離性胸部大動脈瘤術後多発性脳梗塞のため、東京都八王子市の病院で死去[29]。満75歳没(享年76)[14][4]。
闘病・死去