青野武
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同芸術学院に願書を貰うため、玄関に立ったが誰もいなかったという[16]。その時、芝居の稽古中の声が聞こえて、その素晴らしい声に「その修練を積んだ声、これがプロになる人の声か!」とショックを受けると同時に、「なにがなんでもここに入って、絶対役者になってやろう」と思っていたという[6][16]。その時に同じ北海道出身の俳優の松山照夫コッペパンをかじりながら、「お前どっから来たの?」と言われ、「北海道です」と答えると、「そうか、北海道か。俺も北海道だ。お前、役者になりたくてでてきたんだべ?悪い事は言わんから、クニに帰れ」と言われたという[6][16]。しかし願書の手続きをはじめ色々面倒をみてもらい、「俺やお前と同じ北海道出身で同期の奴がいるから会わせてやる」と言って、喫茶店へ案内してくれたという[16]。カウンターの中に同期の山田吾一、のちの劇団仲間で先輩の宮内幸平がいた[16]。松山、山田が音頭をとってもらい、歓迎会を開いてくれたという[16]。歓迎会には北海道出身の同芸術学院の人物達が6人程集まり、その中にのちに妻となる女性もいたという[16]。その後、同芸術学院に入学して、演劇を学ぶ[2]。同芸術学院の1年先輩に家弓家正がいる[13]。当時は喫茶店の風月堂サンドイッチマンレストランの出前持ち、バーテンストリップの照明係、アルサロのボーイ等のアルバイトを経験していた[16]。同芸術学院卒業の際、クラス担任の教師が「君は暗すぎる。そんなに暗くちゃこれからの役者人生、とてもやっていけないよ。」と述べていた[2]。この言葉は身に染み、生い立ちを含めて、食う、食わずの毎日の生活、「さらに役者として自分はやっていけるのだろうか」という不安で、暗くしていった[2]。しかしその教師は同芸術学院卒業後も、芝居を欠かさず観にきており、絶えず暖かく励ましてくれたという[2]

劇団七曜会に所属した際に主役を務めた『欲望という名の電車』での演技が認められ、それを観ていたTBSのディレクターから「一時間物の西部劇の主役の声を演ってみないか」と声が掛かり、海外ドラマ『ブロンコ』の主役であるタイ・ハーデンの吹き替えを担当した[2]。しかし当時は毎回アテレコに苦労し、終わるたびに己の力のなさを痛感していたという[2]。晩年も時々北海道訛りは出ていたが、当時はそれ以上に訛りが酷く、放映を観ていた友人たちに「お前訛りひどいよ、駄目だよあれじゃ」と指摘されていた[2]。唯一、主役の声に抜擢してくれたディレクターが素晴らしく、「青ちゃん気にするな。西部劇ってのはね、『アメリカの東北』なんだよ。向こうの役者だって訛りがひどいよ、土の臭いが出ていればいいの」という一言で気が楽になったかもしれないという[2]。トチッていた時、酷い失敗をしてしまったがそのままOKになり、一応ディレクターに報告したところ「あーあそこね、心配ないよ。馬の蹄の音を大きく入れるから」と励まされた[2]。ある日録音が終わり、帰り支度をしていたところ一緒に出演していた俳優座に所属していた俳優から「青野君一寸!」と呼ばれた[2]。その時にスタジオの隅に連れていかれ「青野君、向こうの音(セリフ)に引っ張られては駄目だよ。英語のセリフの調子と日本語とでは違うんだからね。これは日本語版なんだから日本語の内容を考えてしゃべりなさい」とアドバイスを受けた[2]。その時の帰り道は感動し涙が止まらず、吹き替えを始めたばかりの駆け出しで右も左もわからず、心細かった時期だったことから、たまらなく嬉しかったという[2]

『ブロンコ』の放送中は所属していた劇団七曜会が解散したり、娘が誕生したりしたが、『ブロンコ』だけでは生活できず、アルバイトは続けていたという[2]。『ブロンコ』は一番思い出のある作品であり、前述のTBSのディレクターも大恩人と語っていた[19]。「もし『ブロンコ』がなかったら、1979年時点の青野はいなかったかもしれない」といい、『ブロンコ』はそのままアテレコの経歴にも記されていた[19]

これを機に、以後多くのアニメ・吹き替えなどで声優として活躍した。また俳優としても、大河ドラマ北条時宗』やNHK教育の『このまちだいすき』などの映像作品に出演した。

七曜会解散後は3、4年は、当時ボツボツと出来初めていたプロダクションに所属、小さな劇団に入団したり、腰の落ち着かない日々を送り、アテレコの仕事も遠のいてしまったという[13][20]

その中でも、七曜会に一緒に所属していた高橋正夫との勉強会は楽しく、月に一、二度、高橋の宅で岸田國士の戯曲の読み合わせをしていた[20]

当時は、色々な意味で、飢えて、その勉強会も、妻と4歳の娘を抱え、役者業だけでは食えなくガリ版切りのアルバイト[6]、雑事に追われ自然消滅し、相変わらずの暗闇の中での手さぐり状態が続いていた[20]。1年程たった頃、再び高橋に会う機会があり、その時に「今芝居を演ってるんだ、観においで。」とチケットをもらい、それが、劇団芸協の芝居で、これが芸協との初めての出会いだった[20]

ある時高橋に「うちの演出家が僕に言うんだ。あなたの切符でいつも一番後ろの席で、芝居を観ている青年がいる。ひとつ会わせてくれないかってね。どうだい、会ってみるかい」と言われ、その演出家が、あずさ欣平だった[20]

その時に「会う場所はこちらで決めてくれ」との事で、初めてアルバイトした店の風月堂に決めていた[20]。あずさとは劇場で二、三度見かけただけであり、話ししていたのはこれが初めてだった[20]。その時にあずさは青野の昔の舞台は見ており、あずさから「君、芝居はやらないの?役者を目指して上京したのなら、役者を続けなきゃダメじゃない」、「埋もれさせておくには惜しい人材」と入団を誘ってくれたという[6][13][20]

演劇活動では、劇団青俳の研究生[13]、七曜会解散後に作品座[21]の所属を経て[注 1]、劇団新劇場[13]などを経て、20代の頃に出会ったあずさ欣平と親交を結び、30歳の時に劇団芸協[19][22][10]に所属した[20]。あずさの他、劇団仲間であった雨森雅司、宮内幸平[15]田中和実[18]など、死去した友人の遺志を継ぎ、同劇団の主宰を務めた[23]

劇団芸協での初舞台は久米正雄作『地蔵教由来』となる[20]

劇団芸協に入団後、あずさは、芝居の演出の他、外国映画の吹き替え、アニメーションのディレクターもしていた縁でまたアテレコの仕事に少しづつ出演させてくれるようになり、徐々に声の出演作品が増えていった[6][13][20]。しかし生活は相変わらずで、ガリ版切りのアルバイトに追われる毎日だったという[20]

声優としては演協プロ[24]河の会[25]江崎プロダクション[26]、オフィス央[27]を経て、青二プロダクションに所属していた[10]


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