劇団七曜会に所属した際に主役を務めた『欲望という名の電車』での演技が認められ、それを観ていたTBSのディレクターから「一時間物の西部劇の主役の声を演ってみないか」と声が掛かり、海外ドラマ『ブロンコ』の主役であるタイ・ハーデンの吹き替えを担当した[2]。しかし当時は毎回アテレコに苦労し、終わるたびに己の力のなさを痛感していたという[2]。晩年も時々北海道訛りは出ていたが、当時はそれ以上に訛りが酷く、放映を観ていた友人たちに「お前訛りひどいよ、駄目だよあれじゃ」と指摘されていた[2]。唯一、主役の声に抜擢してくれたディレクターが素晴らしく、「青ちゃん気にするな。西部劇ってのはね、『アメリカの東北』なんだよ。向こうの役者だって訛りがひどいよ、土の臭いが出ていればいいの」という一言で気が楽になったかもしれないという[2]。トチッていた時、酷い失敗をしてしまったがそのままOKになり、一応ディレクターに報告したところ「あーあそこね、心配ないよ。馬の蹄の音を大きく入れるから」と励まされた[2]。ある日録音が終わり、帰り支度をしていたところ一緒に出演していた俳優座に所属していた俳優から「青野君一寸!」と呼ばれた[2]。その時にスタジオの隅に連れていかれ「青野君、向こうの音(セリフ)に引っ張られては駄目だよ。英語のセリフの調子と日本語とでは違うんだからね。これは日本語版なんだから日本語の内容を考えてしゃべりなさい」とアドバイスを受けた[2]。その時の帰り道は感動し涙が止まらず、吹き替えを始めたばかりの駆け出しで右も左もわからず、心細かった時期だったことから、たまらなく嬉しかったという[2]。
『ブロンコ』の放送中は所属していた劇団七曜会が解散したり、娘が誕生したりしたが、『ブロンコ』だけでは生活できず、アルバイトは続けていたという[2]。『ブロンコ』は一番思い出のある作品であり、前述のTBSのディレクターも大恩人と語っていた[19]。「もし『ブロンコ』がなかったら、1979年時点の青野はいなかったかもしれない」といい、『ブロンコ』はそのままアテレコの経歴にも記されていた[19]。
これを機に、以後多くのアニメ・吹き替えなどで声優として活躍した。また俳優としても、大河ドラマ『北条時宗』やNHK教育の『このまちだいすき』などの映像作品に出演した。
七曜会解散後は3、4年は、当時ボツボツと出来初めていたプロダクションに所属、小さな劇団に入団したり、腰の落ち着かない日々を送り、アテレコの仕事も遠のいてしまったという[13][20]。
その中でも、七曜会に一緒に所属していた高橋正夫との勉強会は楽しく、月に一、二度、高橋の宅で岸田國士の戯曲の読み合わせをしていた[20]。