この項目では、京都市東山区にある寺院について説明しています。その他の用法については「青蓮院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
青蓮院
宸殿
所在地京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分26.32秒 東経135度46分59.51秒 / 北緯35.0073111度 東経135.7831972度 / 35.0073111; 135.7831972
青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。 青蓮院は、梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動[注釈 1]の1つ「青不動」のある寺としても知られる。 梶井、妙法院などと共に、青蓮院も比叡山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっている。青蓮院は比叡山東塔の南谷(現・延暦寺第三駐車場)にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源である。青蓮坊は慈覚大師円仁、安恵、相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。 山下に移ったのは平安時代末期、青蓮坊の第12代行玄大僧正の時で、移転先は現在地のやや北西にあたる三条白川の地である。久安6年(1150年)に鳥羽上皇と皇后美福門院は行玄に帰依して青蓮坊を祈願所とした。このため、この頃から寺格が上がり始めた。その上、鳥羽上皇は第7皇子の覚快法親王を行玄の弟子として入寺させている。これ以降、当院は門跡寺院となり皇族や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。 青蓮坊は院の御所に準じて都に殿舎を造営し、青蓮院と改称する。とはいえ、山上には青蓮坊がそのまま残されており、廃絶する室町時代まで寺籍は保たれていた。 行玄の没後は行玄の庇護者であった鳥羽法皇の皇子である覚快法親王が第2世門主となったが、その後継者については九条兼実が弟である慈鎮和尚慈円に譲らせようと覚快に圧力をかけ、他の弟子への継承を考えていた覚快がこれに反発し、更に行玄から覚快への継承に不満を抱いていた覚快の兄弟子である実寛 その後、鎌倉時代になると三条白川の地にあった当院は、白川の氾濫を避けて高台となっている現在地へと移った。ここはもと十楽院という寺があった場所である。当院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と呼ばれているのがその名残である。 1220年代までには梶井門跡(現・三千院)と並ぶ門跡としての地位が確立されたとみられ[3]、更に宝治2年(1248年)閏12月29日に出された後嵯峨上皇の院宣に初めて「青蓮院門跡」という呼称が登場することになる[注釈 2]。その一方で、慈円の後継者を巡る争いをきっかけに青蓮院内に2つの派閥が形成され、後醍醐天皇の仲裁で第16世門主である慈道法親王が第17世門主の尊円法親王に門跡の地位を譲るまで100年以上も門主の地位を巡る内紛が続いている[注釈 3][5]。
概要
歴史