本堂、宸殿、小御所、華頂殿、叢華殿、好文亭などがあるが、いずれも古いものではない。各建物(好文亭除く)は渡り廊下でつながれている。庭園は室町時代の相阿弥作と伝える築山泉水庭、江戸時代の小堀遠州作と伝える霧島の庭などがある。境内西側には京都市天然記念物のクスノキの巨木が5本ある。青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。
熾盛光堂(しじょうこうどう、本堂) - 境内の南側に西面して建つ方三間、宝形造の堂。堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅を安置するが、通常は公開していない(天台宗開宗1,200年を記念し、2005年(平成17年)9月28日から12月28日まで公開された)。熾盛光如来とは仏頂尊の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。寺伝では文禄5年(1596年)作の掛軸で、中央に種子「ボロン」(?????・bhruuM)で表した熾盛光如来、周囲に八大菩薩を表したものという。お前立ち像は2006年(平成18年)秋に篤志家より奉納された、本翡翠・プラチナ製の宝珠像となっている。本堂の東裏には国宝の青不動像の小さな複製が安置されている。
宸殿 - 小御所の西側に建つ入母屋造、桟瓦葺きの寺内で最も大きな建物。もとの宸殿は後水尾天皇の中宮である東福門院の御所が朝廷より寄進され、移築されたものであったが、1893年(明治26年)に焼失し、後に復興された。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇と歴代門主の位牌を祀る堂である。障壁画の浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、1962年(昭和37年)に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。また、かつての宸殿で浄土真宗の開祖である親鸞が3代門主慈円について得度をしたことから、「お得度の間」とも呼ばれる。宸殿の前には右近の橘、左近の桜が植えられている。
大玄関 - 黒田正夕氏筆の襖絵「日月松桜百鶴図」がある。
庭園 - 枯山水庭園。
庫裏
華頂殿 - 客殿、白書院。木村英輝筆の蓮の襖絵が60面ある。
小御所 - 本堂の北側に建つ入母屋造、桟瓦葺きの建物。もとの小御所は後桜町上皇の仮御所として使用された建物であったが、1893年(明治26年)に焼失し、後に江戸時代中期の建物を移築して復興された。小御所に続く渡り廊下の横には豊臣秀吉が奉納した「一文字手水鉢」がある。
庭園「霧島の庭」 - 小堀遠州作の庭に霧島つつじが沢山植えられている。
九重石塔
叢華殿
茶室「好文亭」 - 青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として使用した茶室。1993年(平成5年)に中核派による放火で焼失したが、1995年(平成7年)に復元された。主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。上村淳之筆の花鳥図の障壁画13面がある。
庭園「大森有斐の庭」
庭園「相阿弥の庭」 - 龍心池を中心とする池泉回遊式庭園。洗心滝があり、池には石橋の跨龍橋が架かる。
日吉社 - 鎮守社。元は粟田口に祀られていた十禅師社であったが、応仁の乱で荒廃し、慶長10年(1605年)に現在地に移されて再興された。
稲荷社
秋葉社
徳彦王御胞衣塚 - 青蓮院門跡第47世門主尊融入道親王であった久邇宮朝彦親王の第5王子である多嘉王の5人の王と女王の胞衣塚が残る。
家彦王御胞衣塚
發子女王御胞衣塚
賀彦王御胞衣塚
b子女王御胞衣塚
鐘楼
御幸門(四脚門) - 明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。
親鸞聖人童形像 - 銅像。親鸞が青蓮院で得度したことにちなんでいる。
植髪堂 - 境内の北方に建てられている。親鸞が得度した際の髪が木造親鸞童形像に植えられているとされ、それを祀っている。地下は納骨堂になっている。宝暦9年(1759年)に建立され、1880年(明治13年)に現在地に移転された。
遺髪塔 - 親鸞の髪が納められているとする。
長屋門 - 表門の手前右手に建つ門で、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。
表門
クスノキ 5本(京都市指定天然記念物) - 親鸞の手植とされているが、青蓮院が現在地に移るより前からあったものである。
墓地
花園天皇十楽院上陵 - 宮内庁の管理下にある。
青蓮院宮上ノ墓地 - 宮内庁の管理下にある。
尊祐法親王墓 - 伏見宮邦永親王の第2王子。霊元天皇の養子。
尊証法親王墓 - 後水尾天皇の第17皇子。
尊純法親王墓 - 伏見宮貞敦親王の第5子である応胤入道親王の王子。
道円法親王墓 - 後光厳天皇の第8皇子。
尊鎮法親王墓 - 後柏原天皇の第5皇子。