青森県
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県西部にある日本海側の津軽地方と、県東部にある太平洋側の南部地方の2つの地域に大別される[16]が、南部地域の名称はかつてこの地を治めた南部氏に由来するもので、県の南部を指すわけではないことに注意を要する。津軽地方の面積は4828.08km2(全県比:50.06%)[17]、人口は651,668人(全県比:55.7%)、一方の南部地方の面積は4817.18km2(全県比:49.94%)[17]、人口は517,512人(全県比:44.2%)となっており、両地方の面積は県のほぼ半分ずつであるが、人口はやや津軽地方の方が多い(人口は2024年4月1日現在の推計人口[18])。

このほか、以下のような地域呼称がある(太字は県の地域県民局に用いられている呼称)。

郡市地域呼称
東津軽郡青森市東青津軽
中津軽郡弘前市中弘中弘南黒
(中南)
南津軽郡黒石市
平川市南黒
西津軽郡つがる市西北五
(西北)
北津軽郡五所川原市北五
下北郡むつ市下北二北南部
上北郡十和田市
三沢市上北
(上十三)三八上北
三戸郡八戸市三八

青森県庁では県内を6つの地域に区分し、各地域に総合的な出先機関である地域県民局を設置している[19][20]

青森県庁による区分名称所管区域面積
(km2)人口
(人)
東青地域県民局青森市東津軽郡1477.37279,646
中南地域県民局弘前市黒石市平川市中津軽郡南津軽郡1555.92248,925
西北地域県民局五所川原市つがる市西津軽郡北津軽郡1794.79123,097
下北地域県民局むつ市下北郡1415.5962,445
上北地域県民局十和田市三沢市上北郡2126.81183,280
三八地域県民局八戸市三戸郡1274.78271,787


地域県民局の所在都市は太字

面積は2010年(平成22年)10月1日時点[17]

人口は2024年4月1日時点の推計人口[18]

歴史
先史三内丸山遺跡

日本列島では1万2000年前になると、物を貯蔵・煮沸する容器として土器が考案され、津軽半島の外ヶ浜町にある大平山元I遺跡では、無文土器や局部磨製石斧が出土し、生活の様相が大きく変わったことがうかがえる。縄文時代の遺跡として、三内丸山遺跡亀ヶ岡遺跡是川遺跡小牧野遺跡大森勝山遺跡などが現在までに発見されている。これらの遺跡には豊富な土器、広い集落跡、また他地方のものと思われる遺物が発見され、文化・経済などの面で周辺にも強い影響を与えていたと考えられている。

また、弥生時代前期の水田跡遺跡として知られる砂沢遺跡や中期後半の垂柳遺跡が発掘されており、の栽培が行われたことが確認されている。ただし、弥生時代中期に稲作は衰え、大幅な人口流出があったものと考えられている。
古代

弥生時代から古墳時代の日本列島において、北九州から関東地方までの諸勢力を配下に治める中央政権たるヤマト政権(大和朝廷)が成立した後も、東北地方中部以北は中央政権の統治領域外にあり、本州北部の住民は蝦夷(毛人、エミシ)の呼称で呼ばれていた。現在の考古学的知見では、当時の青森県を含む東北地方中北部は、続縄文文化の段階にあった。

日本書紀』においては朝廷より津軽地方の蝦夷が冠位を授けられた内容を記す斉明天皇元年(655年)条をはじめ津軽地方の地名が出現し、このころには朝廷に服従し朝貢関係を結び、中央政権に把握されていったものであると考えられている。また『書記』に拠れば斉明天皇4年(658年)からは阿倍比羅夫による「北征」が行われている。これは数か年に及ぶ大事業で、朝廷軍は北海道や樺太にまで渡ったと伝えられる。

このころの青森県では、古墳文化の影響を受けた末期古墳の造営が活発化し、大和朝廷との関係の深まりの中で造営が行われたものと推察される。畿内ヤマト王権が成立し、東国を含め日本列島各地では在地勢力やヤマト王権の影響を受けた勢力による古墳の築造が開始されるが、同地域では前期古墳以来の前方後円墳は見られず、律令制国家成立期の末期古墳が多数存在する。上北郡では阿光坊古墳群八戸市では鹿島沢古墳群丹後平古墳群・殿見古墳群、平川市では原古墳群などが存在する。出土した土師器須恵器の編年や周辺遺跡の出土品から、鹿島沢・阿光坊は7世紀後半、丹後平は8世紀初頭に中心を置く遺跡と推定されている。この古墳は小規模な円形墳丘の中に石室を造ったり墓壙を掘っている。その周りを1m強の幅を持つ周溝で円形に取り囲んでいる。7世紀から9世紀にかけて東北北部や道央部にまで達している[21]

律令制国家の成立に伴い、8世紀から9世紀には奥羽経営もさらに進められ、坂上田村麻呂陸奥出羽按察使征夷将軍文室綿麻呂による蝦夷征討において、閉伊(へい)爾薩体(にさたい[注釈 6]))地方の蝦夷を平定したという。北奥地域は陸奥国に属さず、蝦夷は服属・抵抗を繰り返しつつも、次第に律令制国家に組み込まれていったと考えられている。

平安時代11世紀には、岩手県北上平野の地域に俘囚安倍氏の勢力が確立すると、岩手県北から下北半島にかけての糠部地方で同族と見られる安倍富忠が有力となった。前九年の役において、富忠は源頼義に使わされた金為時の誘いを受け、朝廷方に付いた。

安倍頼時は富忠に対する説得のため出兵するが、富忠の反攻により戦死した。頼良を滅ぼした富忠だったが、朝廷や源頼義からの恩賞を受けた記録は無く、以後の糠部安倍氏に関する史料はない。北上平野の安倍氏はついに滅ぼされたが、貞任の子の高星丸が叔父の安倍則任とともに糠部を経て津軽に落ち延び、津軽安東氏(安倍姓)の祖となったとの伝承がある。
中世

青森県域が明確に中央政権に組み込まれるようになったのは延久北奥蝦夷合戦以後であると考えられている。正確な時期は不明だが、延久北奥蝦夷合戦から奥州藤原氏時代までのいずれかの時期に中央と同様の郡郷制が敷かれ、糠部郡平賀郡鼻和郡田舎郡西浜外浜が設置されたのである。平安時代末期に奥州藤原氏を倒した源頼朝によって南部光行が糠部五郡を与えられたとの伝承があるが、史実かどうかは確認されていない[注釈 7]13世紀後半までに県域の全てが北条氏得宗領となり、その地頭代として津軽安藤氏が下北半島や津軽半島、また蝦夷島(北海道)の沿岸部を支配し、室町時代中期にかけて海上交易で栄えた。特に十三湖沿岸に築いた港(十三湊)には大きな町が形成され、現在でも中国や日本各地の陶磁器が出土している。

ところが、津軽安藤氏は鎌倉時代末期に内訌を起こして(津軽大乱)勢力を後退させた。また、南北朝時代の到来に当たっては北朝側につき、現在の岩手県南部から青森県東部の内陸部に勢力を持ち始めた南部氏南朝方についたために同氏と対立、抗争した。


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