青山学院大学
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1937年(昭和12年)には関東学院神学部をも統合したが、1940年(昭和15年)の日本バプテスト神学校設立にともない千葉勇五郎らバプテスト系の教授は青山学院を離れた[38]

昭和の戦時色が強まる中で1940年(昭和15年)10月17日に青山学院校庭で皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会が開催され、翌年6月24日に日本基督教団が設立された。同志社を除くプロテスタント諸教派の神学校は戦時統合を余儀なくされ、青山学院神学部も1943年(昭和18年)に男子部は日本東部神学校、女子部は日本女子神学校に統合させらた。神学部長渡辺善太は日本女子神学校の校長に転じ、宗教史学の比屋根安定と教会史の気賀重躬を除く神学部教師も教団設立の神学校に移った[39][40]

戦前期の歴代神学部長[41]氏名在任期間備考
ロバート・S・マクレイ1883年 - 1887年東京英和学校総理との兼任
G・カクラン1888年 - 1889年
M・S・ヴェイル1889年 - 1892年
ジョン・ワイア1892年 - 1896年
ベンジャミン・チャペル1896年 - 1901年
ジュリアス・ソーパー1901年 - 1908年
A・D・ベリー1908年 - 1931年1908年から15年まで神学科長
阿部義宗1931年 - 1937年1933年から院長兼任
大村勇1937年 - 1939年
渡辺善太1939年 - 1943年

戦後

1949年(昭和24年)の新制大学発足時に文学部基督教学科が設置された。同学科のあり方をめぐって伝道者養成を重視するか、神学研究を重視するかの路線対立があったが、次第に前者が優勢となり、1961年(昭和36年)に基督教学科は神学科と改称して日本基督教団認可神学校となった[42][43]

60年安保闘争に際して院長兼学長大木金次郎は「三公示」を掲示して学生の全学連への加入、政治的実践、ストライキなどの授業妨害を禁じたが[44]、基督教学科教師・学生の一部はこれを無視してデモに参加した[45]1962年(昭和37年)には神学科教師の一部がキリスト教概論(キリ概)を必修科目として全学生に課すことに異議を唱えて大木を激怒させた[45]

1968年(昭和43年)12月、神学科学生を含む青学全共闘が「三公示」撤回を要求して大学をバリケード封鎖した。全学教授会は翌年1月「三公示」を撤回したが、学内混乱はなおも続いた[45]

さらに1971年(昭和46年)には文学部教授会が東京神学大学除籍者2名の神学科への編入学を認めたが、大木はこれを拒否し、早川保昌学長は抗議辞職した。元東神大生2名は東京地裁に編入学の地位保全に関する仮処分申請を行ったが、地裁はこれを却下。元東神大生を背後から支援して学院を窮地に追い詰めたとして文学部長野呂芳男は退職を強要され、非常勤講師の浅野順一荒井献田川建三は出講を禁じられた。その後も学生や解雇された副手(神学科卒業生)による法廷闘争が相次いだ[46]

かくして大木から「造反神学、闘争神学ないし雑神学」と批判された[47]神学科は1972年(昭和47年)11月21日の理事会で募集停止の決議が下され[48]、在籍者が全員卒業した1977年(昭和52年)に廃止された[注釈 5]。廃止理由については文部大臣宛の廃止認可申請書の中で以下の4点を挙げている[49]

伝道者養成は大学よりも専門の神学校で行うことが適当である。

学内宣教活動は学部学科組織とは別の宗教センターをもって行うことが妥当である。

神学科への入学志願者は定員に達せず、前途有望な学生や卒業生が少なくなっている。

学校経営・管理面における問題等により、もはや神学科を存置する理由を見出せない。

廃科後も元教師や卒業生らは同窓会基督教学会での活動を継続したが、会員の高齢化により2015年(平成27年)に閉会を決定した[50]
年表

年表沿革
1872年米国メソジスト監督教会、伝道局会議で日本伝道開始を決議[51]
1873年ロバート・S・マクレイらが来日し、日本宣教部を設立[52]
1874年麻布に女子小学校設立
1875年女子小学校を救世学校に改称
1877年救世学校を築地に移転し海岸女学校へ改称
1878年築地に耕教学舎設立
1879年横浜美會神学校設立
1881年耕教学舎が東京英学校と改称
1882年美會神学校を東京英学校に合同
1883年東京英学校が赤坂区青山南町官園跡地(現在地)へ移り、「東京英和学校」と改称[53]
1888年海岸女学校の上級生を青山に移し、東京英和女学校と改称
1891年英語師範科を開設[54]
1894年東京英和学校を青山学院に改称
青山キャンパスに神学部・普通部(高等普通学部・英語師範科・予備学部)を設置
海岸女学校を閉鎖し、東京英和女学校に合同
1895年東京英和女学校を青山女学院に改称。神学部・普通学部(高等科・予備科・普通科)手芸部、幼稚園を置く
1899年幼稚園を閉園
青山女学院手芸部が独立し、青山女子手芸学校となる
1900年尋常中学部を中等科、高等普通学部を高等科と改称[55]
高等科卒業生の英語科中等教員無試験検定を認可される[56]
1901年高等科が徴兵猶予の特典を得る[55]
1904年青山学院高等科・神学部は専門学校の認可を受ける
青山女学院英文専門科は専門学校の認可を受ける
1906年青山学院財団法人設立
校旗と校章を制定[57]
「青山学院大学部設立の趣旨」を発表[58]
1908年神学部を神学科と改称[59]
1912年閉鎖された東京クリスチャン神学校の学生が青山学院神学科に編入[60]
1914年青山女子手芸学校を青山女学院に合同
関西学院神学部教授会との共同編集で『神学評論』を創刊(1941年終刊)[61]
1915年神学科を神学部、高等科を高等学部、中等科を中学部と改称[62]
1916年高等学部人文科・英語師範科・実業科を設置[62]
1918年勝田銀次郎の寄付により高等学部校舎(勝田館)落成[63]


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