青山学院大学
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大学の略称は青学(あおがく)[4]、青学大(あおがくだい)[5]、AGU[6]
概説メソジストの指導者ジョン・ウェスレー相模原キャンパス内のウェスレー・チャペルはウェスレー兄弟に因んでいる)
大学全体

1874年明治7年)に佐倉藩農学者津田仙の斡旋により米国メソジスト監督派教会女性海外伝道協会からドーラ・E・スクーンメーカーが麻布に設立した女子小学校1878年(明治11年)に津田仙の命名、斡旋により米国のメソジスト監督教会からジュリアス・ソーパーが築地に設立した耕教学舎、1879年(明治12年)にメソジスト監督教会日本宣教総理[7]ロバート・S・マクレイが横浜山手町に設立した美會神学校の3つを源流とするキリスト教系の大学である[8][9]。R・S・マクレイのにはアメリカ西海岸最古の名門私立大学である南カリフォルニア大学創立者のロバート・M・ウィドニー(英語版)、南カリフォルニア大学二代目学長のジョセフ・ウィドニー(英語版)がいる。

1881年(明治14年)、津田仙、和田正幾菊池卓平元良勇次郎、生島閑、栗村左衛八等の尽力により耕教学舎と美會神学校が合併して東京英学校となり、1883年(明治16年)、ジョン・F・ガウチャーの寄付により赤坂区青山南町七丁目の開拓使試験場跡に移転し、東京英和学校と改称。1894年(明治27年)に本多庸一院長により青山学院と改称し、神学部と普通部が設置される。1904年(明治37年)に神学部、高等科、青山女学院英文専門科が旧制専門学校として認可を受ける。

大正期の高木壬太郎院長は大学令による旧制大学への昇格を目指したが、高木の急逝と関東大震災のため昇格計画は頓挫した。

1943年(昭和18年)に神学部を閉鎖し、さらに翌年専門部(文学部、高等商業学部)をも閉鎖し、青山学院工業専門学校を開設。

終戦後の1946年(昭和21年)に青山学院専門学校が発足し、翌年横須賀分校を開設(1950年横須賀学院に継承)[10]

1949年(昭和24年)に新制大学として青山学院大学が開校し、文学部商学部工学部を設置。工学部は経営難のため翌年関東学院大学に譲渡されたが[11]1965年(昭和40年)に理工学部として復活。1959年(昭和34年)に法学部、1966年(昭和41年)に経営学部、1982年(昭和57年)に国際政治経済学部を設置した。

2023年(令和5年)時点で、11学部・12研究科(大学院)を設置する総合大学である[12]

学院院長、理事長、および大学長を除く設置学校の長は、キリスト教徒であることが義務付けられている(かつては大学長も)。そのため現在でもキリスト教を教育の基本に置き、「キリスト教概論」の講義は、建学理念のバックボーンを理解するために必修科目として位置づけられている。「地の塩、世の光」(マタイによる福音書 5章13?16節)をスクール・モットーと定めている[13]
校名の由来

現在の住所は渋谷区だが、青山学院の前身の東京英学校が築地から1883年に移転し東京英和学校となった当時は、周辺が「青山」と呼ばれる土地で、住所も東京府赤坂区青山南町七丁目であった(なお初等部の一部は元小松宮家の土地)。青山南町七丁目は1889年市制町村制施行に伴い南豊島郡渋谷村1909年町制施行、1932年東京市に編入され渋谷区となる)に編入、1928年に町名は緑岡町と変更され、1966年住居表示実施に伴い現在の地名渋谷となった。

「英和」の名称は1880年代欧化主義時代には魅力的な響きがあったが、国粋主義が台頭する中で反発もあり、より複雑な教育内容にも合致しなくなったため、本学の地である青山の地名をとって「青山学院」と称することになった(命名者は本多庸一といわれている)[14]。なお、学院を名乗った明確な理由は不明だが、後年編纂された『青山学院一五〇年史』は「中国語の『学院』が単科大学を意味するように、高度な専門教育を行う『大学』に近い意味を込めた」と推測している[15]
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女子小学校(海岸女学校)を創立したドーラ・E・スクーンメーカーの石碑

耕教学舎を創立したジュリアス・ソーパーの石碑

美會神学校を創立したロバート・S・マクレイ(初代学院長)の石碑

1870年代に創設された3つの学校は、移転・校名変更・合同など様々な変遷を遂げながら 1927年に男女の教育機関としての「青山学院」を形成した。源流の3校を開校した3名の宣教師が、青山学院の直接的な創立者である。

なお、3人は帰国後それぞれにカリフォルニア州ロサンゼルス市で布教活動を続けた後、晩年を迎え、同市の墓地に眠っている。現在、それぞれの墓所は、青山学院校友会ロサンゼルス支部が墓守の役割を担い、毎年11月の創立記念日に近い土曜日に同支部の有志が墓参している。学院長、校友会長、理事長、大学学長らが日本から来て墓参に加わることもある[16]
教育および研究1号館(旧高等学部校舎)2号館(旧中学部校舎)


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