青山学院大学
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2008年には、2012年4月より文系学部を青山キャンパスに全面移行させることを発表していた[23]が、移転する学生の受け入れ先として建設していた校舎が東日本大震災の影響で竣工の遅延が確実になり、2013年からの移行と発表された[24]
大学昇格の遅れ1921年の青山学院構内:左から新ガウチャー・ホール(中学部校舎)、弘道館(大講堂)、フィランダー館(神学部校舎)、勝田ホール(高等学部校舎)

青山学院の創立は1874年であるが、大学に昇格したのは戦後に入ってからである。1899年私立学校令のみの適用を受ける各種学校以外の学校での宗教教育が禁止されたため、青山学院はキリスト教教育を優先し、上級学校への進学や徴兵猶予等の特典のない各種学校となる道を選んだ[22][注釈 1]勝田ホール跡
勝田ホールの全壊など関東大震災の被害が大きかったことが旧制大学への昇格を果たせなかった一因となっている

しかし、キリスト教教育を継続したまま、1901年に上述の特典を回復[22][注釈 2]1904年には専門学校令による旧制専門学校への昇格が認められた[注釈 3]

そして、1909年10月に開催された日本基督宣教開始五十年記念会1910年6月に開催されたエディンバラ宣教会議本多庸一前院長出席)をきっかけとして、超教派のキリスト教主義連合大学構想が本格的に議論されるようになる[25]。この議論を主導したのは明治学院東京学院聖学院であり、青山学院は在来の高等科を廃止するという条件に難色を示したが、青山学院の後援者たるガウチャーが推進論者だったため微妙な立場に置かれることとなった[26]

それでも1915年には高木壬太郎院長や井深梶之助ライシャワー新渡戸稲造佐藤昌介らが中心となって大学創立準備の常任委員会が設置され、7月1日の委員会(ガウチャー列席)で1917年までに「東亜大学」を設置すべきことを決議している[27]

しかしこの間、同志社立教学院関西学院は独自路線を選んだため、1918年大学令公布を機に、青山学院も独自の大学設置計画を進めることを1920年12月13日の理事会で決議した。その計画によれば設置学部は文学部商学部を予定し、1918年(大正7年)に建てられた高等学部校舎(勝田館)を大学校舎とし、図書館と事務室を新築することとされた[28]。しかし、翌年の高木院長の急逝、さらに関東大震災の発生による校舎損壊という不運が重なり、それまでの拡張計画は消し飛んでしまった。

その後は被災校舎の再建と専門学校としての内容充実を優先し、「大学昇格については暫く静観」[29]を余儀なくされた。1939年に院長に就任した笹森順造は再び昇格を企図し、宗教科・英学科・経済科を中心とする大学組織案を1942年4月1日の『青山学院報』に公表した。しかし、戦時下にあって文科系大学の設置は実現の見込みなしとして、同年秋の理事会で大学設置案はまたしても先送りとなった[30]

青山学院が明治期から抱き続けた大学昇格の宿願は結局、戦前・戦中期を通じて果たせぬままとなった。
神学教育の盛衰
戦前「東京英和学校#時計台のある神学校」も参照横浜山手の美會神学校フィランダー・スミス・ビブリカル・インスティテュート(時計台のある神学校)ベリーホール(旧神学部校舎)

青山学院の源流の一つとなる美會神学校1882年(明治15年)に東京に移転して東京英学校(耕教学舎の後身)と合併し、さらに翌年東京英和学校神学科となった。青山の地に建てられた神学科の時計台校舎は寄付者の名前から「フィランダー・スミス・ビブリカル・インスティテュート」と呼ばれ[31]、後年の関東大震災で損壊するまで青山学院の象徴として長く親しまれた。

この神学科は1886年(明治19年)に米国メソジスト監督教会カナダ・メソジスト教会の共同経営となった。1888年(明治21年)には米国南部メソジスト監督教会も加わったが、三派連合の形は長続きせず、翌年カナダ・メソジストと南部メソジストは共同経営から離脱した[32]

1891年(明治24年)に神学科は神学部と改称し、英語神学科と邦語神学科を置いた。いずれも3年制で、非キリスト者であっても教授会が認めた者については研究目的での入学を許可した[33]。卒業生の多くは伝道者となったが、大原社会問題研究所員の大林宗嗣や神智学者三浦関造のように教会伝道とは異なる道を歩む者もいた[34]

同じメソジスト系の関西学院神学部とは学問的にもかかわりが深く、1914年(大正3年)から青山学院・関西学院両神学部教授会の共同編集で学術雑誌『神学評論』を年4回刊行した[35]

青山学院神学部は1920年(大正9年)に修業年限を予科2年、本科3年の5年制へと延長し[36]1923年(大正12年)に聖学院神学校を統合。1928年(昭和3年)に日本女子神学院を統合して神学部女子部を設置[37][注釈 4]1937年(昭和12年)には関東学院神学部をも統合したが、1940年(昭和15年)の日本バプテスト神学校設立にともない千葉勇五郎らバプテスト系の教授は青山学院を離れた[38]

昭和の戦時色が強まる中で1940年(昭和15年)10月17日に青山学院校庭で皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会が開催され、翌年6月24日に日本基督教団が設立された。同志社を除くプロテスタント諸教派の神学校は戦時統合を余儀なくされ、青山学院神学部も1943年(昭和18年)に男子部は日本東部神学校、女子部は日本女子神学校に統合させらた。神学部長渡辺善太は日本女子神学校の校長に転じ、宗教史学の比屋根安定と教会史の気賀重躬を除く神学部教師も教団設立の神学校に移った[39][40]

戦前期の歴代神学部長[41]氏名在任期間備考
ロバート・S・マクレイ1883年 - 1887年東京英和学校総理との兼任
G・カクラン1888年 - 1889年


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