青山学院大学
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英語教育に熱心であり、「英語の青山」と称されることもある[18][19]
沿革

(沿革節の主要な出典は公式サイト[20][21]
略歴

海岸女学校(1881年)

東京英和学校構内(1885年頃)

ガウチャーホール(1887年建設)、現存せず
青山キャンパス購入を手掛けたジョン・F・ガウチャー第2代院長本多庸一

学校法人青山学院は、1873年明治6年)にD.E.スクーンメーカーによって麻布本村町に設立された「女子小学校」と1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパーによって築地に設立された男子校の「耕教学舎」、1879年(明治12年)にロバート・S・マクレイによって横浜山手に設立された男子校「美會神学校」を母体としており、2014年に創立140周年を迎えた。それぞれの学校は全て米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師によって設立されており、現在でも青山学院はキリスト教プロテスタントメソジストミッションスクールである。

現在の青山の地に校舎を構えたのは、東京英学校(耕教学舎の後身)と、美曾神学校が合同することとなった1882年(明治15年)の翌年のことである。合同に際して「東京英和学校」と改称し、予備学部、高等普通学部、神学部が設置され、敷地内に欧風建築が立ち並んだ。また青山キャンパスの購入にあたって莫大な私財を投じたジョン・F・ガウチャーが、日本に“Anglo Japanese University of Tokio and Awoyama”(東京青山英和大学)というメソジスト派の大学を設立するという将来発展のヴィジョンを示していた。その後、本多庸一が校長を務めていた1894年に、現在の青山学院へと改称する。1899年私立学校令のみの適用を受ける各種学校以外の学校での宗教教育を禁じる文部省訓令第12号が公布されると、青山学院はキリスト教教育を続けるために各種学校となることを選び、上級学校への進学や徴兵猶予等の特典を失うことになった[22][注釈 1]。しかし、本多院長らが文部省に訓令の撤回や適用除外の運動をし続けた結果、1901年にそれらの特典を回復[22][注釈 2]1904年には、青山学院高等科・神学部、および青山女学院英文専門科(女子小学校の後身)が専門学校令に基づく旧制専門学校の認可を受ける[注釈 3]。その後、1927年に青山女学院(女子小学校の後身)との統合が文部省に認められ、統合に至った。そして戦後になり、1949年学制改革に際して、青山学院大学として開校するに至った。

当初は文学部(英米文学科/基督教学科)、商学部工学部の3学部が設置されていたのみであったが、その後、工学部の譲渡、商学部の改組、法学部理工学部国際政治経済学部・教育人間科学部・総合文化政策学部・社会情報学部・地球社会共生学部・コミュニティ人間科学部の設置を行い、2023年現在は11学部を擁する総合大学である。

1965年の理工学部設置の際に廻沢キャンパス(後の世田谷キャンパス)を、1982年には1・2年次の学生対象の厚木キャンパスを開設したが、世田谷キャンパスは老朽化し、厚木キャンパスは交通アクセスに難があったため、両キャンパスを統合する形で2003年に神奈川県相模原市に相模原キャンパスを開設した。2008年には、2012年4月より文系学部を青山キャンパスに全面移行させることを発表していた[23]が、移転する学生の受け入れ先として建設していた校舎が東日本大震災の影響で竣工の遅延が確実になり、2013年からの移行と発表された[24]
大学昇格の遅れ1921年の青山学院構内:左から新ガウチャー・ホール(中学部校舎)、弘道館(大講堂)、フィランダー館(神学部校舎)、勝田ホール(高等学部校舎)

青山学院の創立は1874年であるが、大学に昇格したのは戦後に入ってからである。1899年私立学校令のみの適用を受ける各種学校以外の学校での宗教教育が禁止されたため、青山学院はキリスト教教育を優先し、上級学校への進学や徴兵猶予等の特典のない各種学校となる道を選んだ[22][注釈 1]勝田ホール跡
勝田ホールの全壊など関東大震災の被害が大きかったことが旧制大学への昇格を果たせなかった一因となっている

しかし、キリスト教教育を継続したまま、1901年に上述の特典を回復[22][注釈 2]1904年には専門学校令による旧制専門学校への昇格が認められた[注釈 3]

そして、1909年10月に開催された日本基督宣教開始五十年記念会1910年6月に開催されたエディンバラ宣教会議本多庸一前院長出席)をきっかけとして、超教派のキリスト教主義連合大学構想が本格的に議論されるようになる[25]。この議論を主導したのは明治学院東京学院聖学院であり、青山学院は在来の高等科を廃止するという条件に難色を示したが、青山学院の後援者たるガウチャーが推進論者だったため微妙な立場に置かれることとなった[26]

それでも1915年には高木壬太郎院長や井深梶之助ライシャワー新渡戸稲造佐藤昌介らが中心となって大学創立準備の常任委員会が設置され、7月1日の委員会(ガウチャー列席)で1917年までに「東亜大学」を設置すべきことを決議している[27]

しかしこの間、同志社立教学院関西学院は独自路線を選んだため、1918年大学令公布を機に、青山学院も独自の大学設置計画を進めることを1920年12月13日の理事会で決議した。その計画によれば設置学部は文学部商学部を予定し、1918年(大正7年)に建てられた高等学部校舎(勝田館)を大学校舎とし、図書館と事務室を新築することとされた[28]。しかし、翌年の高木院長の急逝、さらに関東大震災の発生による校舎損壊という不運が重なり、それまでの拡張計画は消し飛んでしまった。

その後は被災校舎の再建と専門学校としての内容充実を優先し、「大学昇格については暫く静観」[29]を余儀なくされた。


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