青山学院大学
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なお、学院を名乗った明確な理由は不明だが、後年編纂された『青山学院一五〇年史』は「中国語の『学院』が単科大学を意味するように、高度な専門教育を行う『大学』に近い意味を込めた」と推測している[15]
青山学院の創立者たち@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

女子小学校(海岸女学校)を創立したドーラ・E・スクーンメーカーの石碑

耕教学舎を創立したジュリアス・ソーパーの石碑

美會神学校を創立したロバート・S・マクレイ(初代学院長)の石碑

1870年代に創設された3つの学校は、移転・校名変更・合同など様々な変遷を遂げながら 1927年に男女の教育機関としての「青山学院」を形成した。源流の3校を開校した3名の宣教師が、青山学院の直接的な創立者である。

なお、3人は帰国後それぞれにカリフォルニア州ロサンゼルス市で布教活動を続けた後、晩年を迎え、同市の墓地に眠っている。現在、それぞれの墓所は、青山学院校友会ロサンゼルス支部が墓守の役割を担い、毎年11月の創立記念日に近い土曜日に同支部の有志が墓参している。学院長、校友会長、理事長、大学学長らが日本から来て墓参に加わることもある[16]
教育および研究1号館(旧高等学部校舎)2号館(旧中学部校舎)

青山学院大学は、米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師たちが設立した3つの学校を母体とするキリスト教主義学校(ミッションスクール)であり、アメリカ宣教師が建てた学校が前身であるが故に欧米型カレッジのリベラル・アーツ教育の流れを汲んでいる。それ故、第二次世界大戦前からの伝統として、教養教育(リベラル・アーツ)を重視した方針をとっており、独自に「青山スタンダード」[17]という全学部必修の教養科目の制度をとっている。学生への教養教育カリキュラムを実施する以外に、一般人を対象として各キャンパスで年に4 - 5種の公開講座を実施している。これらの公開講座は週に一度、5週間にわたって行われている。内容、講師の手配は講座を受け持つ教員(持ち回り制)に一任されており、人文科学社会科学自然科学のそれぞれの分野において毎年異なったものが開かれている。

キリスト教主義学校である青山学院大学は、源流となる学校が出来た当初から聖書の授業を全学部学科において必修としており、専門学校の認可を受けた後も神学部を備えていた。神学部はその後、日本東部神学校日本女子神学校に合流して学院から分離されたが、その精神は大学設立後も受け継がれ、設立当初には文学部基督教学科があった。その後1961年に文学部神学科へと改組されたが、学園紛争の混乱の中、理事会の決定により1977年に廃止された。神学科は日本基督教団牧師を養成する認可神学校だった。

英語教育に熱心であり、「英語の青山」と称されることもある[18][19]
沿革

(沿革節の主要な出典は公式サイト[20][21]
略歴

海岸女学校(1881年)

東京英和学校構内(1885年頃)

ガウチャーホール(1887年建設)、現存せず
青山キャンパス購入を手掛けたジョン・F・ガウチャー第2代院長本多庸一

学校法人青山学院は、1873年明治6年)にD.E.スクーンメーカーによって麻布本村町に設立された「女子小学校」と1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパーによって築地に設立された男子校の「耕教学舎」、1879年(明治12年)にロバート・S・マクレイによって横浜山手に設立された男子校「美會神学校」を母体としており、2014年に創立140周年を迎えた。それぞれの学校は全て米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師によって設立されており、現在でも青山学院はキリスト教プロテスタントメソジストミッションスクールである。

現在の青山の地に校舎を構えたのは、東京英学校(耕教学舎の後身)と、美曾神学校が合同することとなった1882年(明治15年)の翌年のことである。合同に際して「東京英和学校」と改称し、予備学部、高等普通学部、神学部が設置され、敷地内に欧風建築が立ち並んだ。また青山キャンパスの購入にあたって莫大な私財を投じたジョン・F・ガウチャーが、日本に“Anglo Japanese University of Tokio and Awoyama”(東京青山英和大学)というメソジスト派の大学を設立するという将来発展のヴィジョンを示していた。その後、本多庸一が校長を務めていた1894年に、現在の青山学院へと改称する。1899年私立学校令のみの適用を受ける各種学校以外の学校での宗教教育を禁じる文部省訓令第12号が公布されると、青山学院はキリスト教教育を続けるために各種学校となることを選び、上級学校への進学や徴兵猶予等の特典を失うことになった[22][注釈 1]。しかし、本多院長らが文部省に訓令の撤回や適用除外の運動をし続けた結果、1901年にそれらの特典を回復[22][注釈 2]1904年には、青山学院高等科・神学部、および青山女学院英文専門科(女子小学校の後身)が専門学校令に基づく旧制専門学校の認可を受ける[注釈 3]。その後、1927年に青山女学院(女子小学校の後身)との統合が文部省に認められ、統合に至った。そして戦後になり、1949年学制改革に際して、青山学院大学として開校するに至った。

当初は文学部(英米文学科/基督教学科)、商学部工学部の3学部が設置されていたのみであったが、その後、工学部の譲渡、商学部の改組、法学部理工学部国際政治経済学部・教育人間科学部・総合文化政策学部・社会情報学部・地球社会共生学部・コミュニティ人間科学部の設置を行い、2023年現在は11学部を擁する総合大学である。

1965年の理工学部設置の際に廻沢キャンパス(後の世田谷キャンパス)を、1982年には1・2年次の学生対象の厚木キャンパスを開設したが、世田谷キャンパスは老朽化し、厚木キャンパスは交通アクセスに難があったため、両キャンパスを統合する形で2003年に神奈川県相模原市に相模原キャンパスを開設した。


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