青山学院大学
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工学部は経営難のため翌年関東学院大学に譲渡されたが[11]1965年(昭和40年)に理工学部として復活。1959年(昭和34年)に法学部、1966年(昭和41年)に経営学部、1982年(昭和57年)に国際政治経済学部を設置した。

2023年(令和5年)時点で、11学部・12研究科(大学院)を設置する総合大学である[12]

学院院長、理事長、および大学長を除く設置学校の長は、キリスト教徒であることが義務付けられている(かつては大学長も)。そのため現在でもキリスト教を教育の基本に置き、「キリスト教概論」の講義は、建学理念のバックボーンを理解するために必修科目として位置づけられている。「地の塩、世の光」(マタイによる福音書 5章13?16節)をスクール・モットーと定めている[13]
校名の由来

現在の住所は渋谷区だが、青山学院の前身の東京英学校が築地から1883年に移転し東京英和学校となった当時は、周辺が「青山」と呼ばれる土地で、住所も東京府赤坂区青山南町七丁目であった(なお初等部の一部は元小松宮家の土地)。青山南町七丁目は1889年市制町村制施行に伴い南豊島郡渋谷村1909年町制施行、1932年東京市に編入され渋谷区となる)に編入、1928年に町名は緑岡町と変更され、1966年住居表示実施に伴い現在の地名渋谷となった。

「英和」の名称は1880年代欧化主義時代には魅力的な響きがあったが、国粋主義が台頭する中で反発もあり、より複雑な教育内容にも合致しなくなったため、本学の地である青山の地名をとって「青山学院」と称することになった(命名者は本多庸一といわれている)[14]。なお、学院を名乗った明確な理由は不明だが、後年編纂された『青山学院一五〇年史』は「中国語の『学院』が単科大学を意味するように、高度な専門教育を行う『大学』に近い意味を込めた」と推測している[15]
青山学院の創立者たち@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

女子小学校(海岸女学校)を創立したドーラ・E・スクーンメーカーの石碑

耕教学舎を創立したジュリアス・ソーパーの石碑

美會神学校を創立したロバート・S・マクレイ(初代学院長)の石碑

1870年代に創設された3つの学校は、移転・校名変更・合同など様々な変遷を遂げながら 1927年に男女の教育機関としての「青山学院」を形成した。源流の3校を開校した3名の宣教師が、青山学院の直接的な創立者である。

なお、3人は帰国後それぞれにカリフォルニア州ロサンゼルス市で布教活動を続けた後、晩年を迎え、同市の墓地に眠っている。現在、それぞれの墓所は、青山学院校友会ロサンゼルス支部が墓守の役割を担い、毎年11月の創立記念日に近い土曜日に同支部の有志が墓参している。学院長、校友会長、理事長、大学学長らが日本から来て墓参に加わることもある[16]
教育および研究1号館(旧高等学部校舎)2号館(旧中学部校舎)

青山学院大学は、米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師たちが設立した3つの学校を母体とするキリスト教主義学校(ミッションスクール)であり、アメリカ宣教師が建てた学校が前身であるが故に欧米型カレッジのリベラル・アーツ教育の流れを汲んでいる。それ故、第二次世界大戦前からの伝統として、教養教育(リベラル・アーツ)を重視した方針をとっており、独自に「青山スタンダード」[17]という全学部必修の教養科目の制度をとっている。学生への教養教育カリキュラムを実施する以外に、一般人を対象として各キャンパスで年に4 - 5種の公開講座を実施している。これらの公開講座は週に一度、5週間にわたって行われている。内容、講師の手配は講座を受け持つ教員(持ち回り制)に一任されており、人文科学社会科学自然科学のそれぞれの分野において毎年異なったものが開かれている。

キリスト教主義学校である青山学院大学は、源流となる学校が出来た当初から聖書の授業を全学部学科において必修としており、専門学校の認可を受けた後も神学部を備えていた。神学部はその後、日本東部神学校日本女子神学校に合流して学院から分離されたが、その精神は大学設立後も受け継がれ、設立当初には文学部基督教学科があった。その後1961年に文学部神学科へと改組されたが、学園紛争の混乱の中、理事会の決定により1977年に廃止された。神学科は日本基督教団牧師を養成する認可神学校だった。

英語教育に熱心であり、「英語の青山」と称されることもある[18][19]
沿革

(沿革節の主要な出典は公式サイト[20][21]
略歴

海岸女学校(1881年)

東京英和学校構内(1885年頃)

ガウチャーホール(1887年建設)、現存せず
青山キャンパス購入を手掛けたジョン・F・ガウチャー第2代院長本多庸一

学校法人青山学院は、1873年明治6年)にD.E.スクーンメーカーによって麻布本村町に設立された「女子小学校」と1878年(明治11年)にジュリアス・ソーパーによって築地に設立された男子校の「耕教学舎」、1879年(明治12年)にロバート・S・マクレイによって横浜山手に設立された男子校「美會神学校」を母体としており、2014年に創立140周年を迎えた。それぞれの学校は全て米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師によって設立されており、現在でも青山学院はキリスト教プロテスタントメソジストミッションスクールである。


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