霊元天皇
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^ 狭義の「禁闕騒動」は、寛文8年12月24日に後水尾院が三条西実教・飛鳥井雅章・正親町実豊・園基福・東園基賢の五卿の天皇への出仕を禁止し、翌日に天皇の取成しで赦免された騒動を指す[14](石田、2021年、P21.)。飛鳥井は坊城房子の外祖父。園と東園は天皇の外戚。
^ 『基熙公記』によれば、皇女誕生後に京都所司代の永井尚庸が江戸に下向する際、武家伝奏の花山院定誠千種有能と協議の上でこの方針が決定されたという。ただし、久保貴子によれば、永井の江戸下向は延宝2年4月と延宝4年10月に確認できるが、前者の時には武家伝奏は中院通茂と日野弘資で、後者の時には京都所司代は戸田忠昌に交替した後にあたり、時期を確定できないという。ただし、『基熙公記』の記述は延宝9年9月のものであり、基熙の記憶違いの可能性も考慮される。
^ 寛文11年5月6日には、天皇が中内侍の頭を鏡で殴打し、出血させる事件を起こしている(石田俊 2011, p. 392)(石田、2021年、P32.)
^ 酒井忠清は継室(姉小路公景の娘)を通じ、一定の禁裏奥向へのルートを持っていた(石田俊 2011, p. 395-396・399)(石田、2021年、P37・45.)
^ 基熙は左大臣転任の際、談合しなかったことで京都所司代戸田忠昌の怒りを買っており、さらに独自に幕府へ関白就任を働きかけている(野村玄 2010, p. 735-736)
^ 2日前に天皇より譲位の意向を伝えられた摂家衆の一人である近衛基熙は、天皇側近である武家伝奏の花山院定誠甘露寺方長の振る舞いが問題とされ、1月に議奏の葉室頼孝が蟄居を命じられた件に関連して京都所司代稲葉正通が調査に乗り出す可能性が出てきたことが直接の原因ではないかと疑っている[50]
^ 久保貴子は、霊元天皇は自己を中心とした朝廷の再編成を目指し、朝廷人事を自派で固めた上で朝儀を再興して自己を力を誇示して朝廷の実権を図り、最終的には自己の院政を実現させて自由な立場で朝廷運営を行うことを目指しており、小倉事件・一条冬経の関白任命・東山天皇への譲位もそのための工作の一環であったとする説を唱えている[50]
^ 通称・品宮、霊元天皇の同母姉。
^ 貞享4年3月の東山天皇の践祚に伴い摂政に転じるが、2年後の元禄2年3月に再び関白に転じる。
^ 内大臣松木宗条の室で、松木宗子の母。
^ 久保貴子は浄土真宗系の寺院は准門跡であったからと解説をしている[69]が、事実関係はやや異なる。太田光俊の研究によれば、本願寺の東西分裂前の永禄2年(1559年)に、本願寺は歴代の法主が摂関家の猶子になっていることを理由に門跡成を申請して正親町天皇の勅許を得ていたが、豊臣秀吉の命令で本願寺が京都に移されて法主の参内が発生すると、京都の諸門跡寺院などから本願寺をはじめとする浄土真宗系寺院の門跡としての資格に疑義が出されるようになった。後水尾・霊元両院も共に浄土真宗系寺院の門跡資格に疑義を持っていたとされ、その結果霊元院政下の元禄13年(1700年)頃に東西本願寺などの浄土真宗系寺院を准門跡とすることが決定された。元禄3年の門跡の下轅・乗轅場所の問題はその過程で起きた事件と言える[70]。いずれにしても、霊元が東西本願寺を含めた浄土真宗系の門跡寺院(開祖の親鸞名家格とされた日野家の出身)と皇族や摂家などの子弟が門主となる古くからの門跡寺院(宮門跡・摂家門跡)との間に格差をつけようとしたと考えられている。合わせて門跡#本願寺の門跡成も参照のこと。
^ 東山天皇は同母弟である京極宮の動きに警戒感を示しており、中御門資熙が蟄居を命じられたのも松木宗子と資熙が天皇を廃位して京極宮を皇位に就けるという風説が流された直後のことであった[84]
^ 『基熙公記』元禄13年3月15日条において櫛笥賀子が四宮にあたる寿宮を生んだ際に霊元と宗子が不快感を示したことに対して近衛基熙は憤慨したことが記されている。東山天皇は寿宮の存在を背景に三宮の出家を決めたが、永禄14年に寿宮が早世し、同年に生まれた同母弟の長宮(中御門天皇)が皇位継承者として浮上することになる。
^ 近衛基熙は朝廷の権威を傷つけるものであるとして激しく反発したが(『基熙公記』正徳5年7月9日条)[90]、娘の天英院(近衛熙子)が以前に近衛家が尚子と徳川家継の婚約内定を破棄して入内させたことを苦にしてこの婚約話を推進していることを知って沈黙せざるを得なかったという[91]
^ 家久の母は霊元の第二皇女憲子内親王であるため、霊元は自分自身の孫を呪詛していたことになる。
^ 霊元天皇から見て9世祖にあたる。
^ 現在の皇室の男系祖先は貞成親王の第一王子で霊元天皇から見て8世祖にあたる後花園天皇であり、旧皇族の男系祖先は貞成親王の第二王子の貞常親王である。

出典^ 『霊元天皇』 - コトバンク
^ 親王内親王女王
^ 久保 1998, p. 56-57.
^ 久保 1998, p. 51-54.
^ 久保 1998, p. 66.
^ 久保 1998, p. 61・66・236.
^ 間瀬久美子「近世朝廷と寺社の祈祷」(初出:『千葉経済論叢』58号、2018年/所収:間瀬『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年)2022年、P173-178.
^ 久保 1998, p. 105.
^ 田中暁龍「近世初期の朝廷法制の変容」『近世朝廷の法制と秩序』山川出版社、2012年、58-59頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-52015-8。 
^ 石田俊 2011, p. 376.
^ 石田、2021年、P17.
^ 石田俊 2011, p. 376-377.
^ 石田、2021年、P17-18.
^ 石田俊 2011, p. 382.
^ a b 石田俊 2011, p. 385.
^ 石田、2021年、P24.
^ 石田、2021年、P25.
^ 石田俊 2011, p. 386.
^ 石田、2021年、P25-26.

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