※この他にもリハーサルまで参加した吉沢、人生(ZIN-SAY!)の結成メンバーで東京初ライヴのみ参加したK太など一時的に在籍したメンバーも複数存在する。なおサポートメンバーであるDJ TASAKA、KAGAMI、渡部高士、agraphに関しては#電気グルーヴと関わりの深い人物の項目で後述する。
略歴
1980年代人生(ZIN-SAY!)解散翌日の1989年4月27日、電気グルーヴは初台駅近くのデニーズ西新宿店で石野卓球とピエール瀧を中心に結成された。
1989年
アシッド・ハウスやヒップ・ホップに触発され、特にパブリック・エナミーやポップ・ウィル・イート・イットセルフに多大な影響を受けていた石野卓球はインディーズバンド「人生(ZIN-SAY!)」(ナゴムレコード所属)にこれらの要素を取り入れようと試行錯誤していたが、バンド編成になっていた人生でそれを実現することは難しく活動を続けていくことに限界を感じていた。
その後、メンバー・おばば(EX分度器)の脱退を機に東京、名古屋、大阪でラストツアー「おばば崩御 さよならおばば(EX分度器)ツアー」を敢行。4月26日、梅田のバーボンハウスでのライヴを最後に人生は解散する。
4月27日 - 人生解散の翌日に石野はピエール畳(瀧)、若王子耳夫、高橋嵐、吉沢、K太、後藤らを誘い、デニーズ西新宿店で電気グルーヴを結成する[注釈 4]。当初の固定メンバーは、石野(ヴォーカル・プログラミング)、瀧(瀧)、耳夫(ギター)、高橋(アラシ、プログラミング)の4人[注釈 5]。
8月20日 - 大阪・十三ファンダンゴでデビューライヴを行う。このライヴでは「人生」解散当時の石野の心情を歌った「N.O.」も披露された[10][11][12]。なお石野はセーラー服を身にまとい、瀧は彼女の手製の帽子、高橋はネクタイ姿、耳夫は交通事故のため欠場した。対バンはファンダンゴで同じくデビューライヴを行ったウルフルズ。
12月7日 - 新宿LOFTで東京初ライヴ。対バンはナゴムレコードのレーベルメイトであった死ね死ね団。
1990年代
1990年
5月7日 - 新宿サウンドハウスの公演終了後に耳夫と高橋が脱退する。
6月25日 - インディーズのSSE COMMUNICATIONSからアルバム『662 BPM BY DG』をリリース。同時期に石野、瀧、CMJK(プログラミング)の3人にメンバーを一新する。
1991年
2月1日 - TMNのシングル「RHYTHM RED BEAT BLACK (Version 2.0)」カップリング曲「RHYTHM RED BEAT BLACK [Version 300000000000](三那由他ヴァージョン)」でメジャーデビュー。これは1990年8月にTMに言及しながらラジオで流れた電気の曲を、たまたま聴いていた小室哲哉が「商品になっている」「音楽もキャラクターも完成された面白さを持っている」「TMを踏み台にして乗り越えてくれれば」と気に入って企画されたものである[13][注釈 6]。
4月10日 - メジャーデビューアルバム『FLASH PAPA』リリース。
5月9日 - 原宿ルイードにてCMJKの脱退記者会見を石野と瀧が全裸で行う[15]。
6月6日 - エル・パーク仙台の公演終了後にCMJKが脱退。その後、かねてから付き合いのあった良徳砂原(よしとく・すなはら。のち砂原良徳、愛称:まりん)が加入し、ライヴを主とした活動を展開する[注釈 7]。
6月8日 - 石野と瀧がニッポン放送の『オールナイトニッポン』土曜2部のパーソナリティを担当(1992年10月に火曜1部に昇格後、1994年3月まで)。「お薦め」コーナーで石野が紹介した外国の最新テクノ・トラックの数々は、リスナーへのテクノ啓蒙的な役割を果たす(実際に石野によるテクノ・コンピレーション盤の企画が実現している)。番組内での出来事・事件については『電気グルーヴのオールナイトニッポン』を参照。