電撃戦
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マーレーなど多くの研究者は、ドイツ陸軍でそのような教義が広く受け入れられていたと主張しているが、例えば、ディトンの研究によればエルヴィン・ロンメル指揮したガザラの戦いは電撃戦とは認めることはできず、1940年フランス侵攻におけるハインツ・グデーリアンが指揮する部隊による戦闘の事例のみに認めることができると主張する。レン・デイトンは、電撃戦の概念がもともとフランスで生まれ、後にグデーリアンが個人的な判断の下で戦闘教義として応用したに過ぎないと考えている。現代では理論はさておき、その実践者として電撃戦はグデーリアンと関連付けられて語られることが多々ある。グデーリアンは、参謀本部の反発を受けながらも歩兵部隊から独立した大規模な機甲部隊を創設し、高度な機動力を備えた部隊を使った機動的な戦闘教義に基づいた作戦計画を作成した。グデーリアンは、地形を適切に選択する機動の原則、奇襲の原則、そして、決定的な地点に戦力を集中させる殲滅の原理を応用し、西方電撃戦を勝利に導いた。

しかし、電撃戦には問題点も少なくなかった。電撃戦においては補給が滞った快速部隊も進撃の停止を余儀なくされてしまうという事態が発生しかねないことである。実際に東部戦線では、このような兵站や補給を軽視した無鉄砲な進撃がスターリングラードの戦いに代表されるような、ドイツ軍の大規模な包囲や投降といった悲惨な敗北にも繋がっている。これは、補給部隊や歩兵を装甲車両化することが電撃戦に必要なことを示している。第二次大戦ではドイツ陸軍でも機械化歩兵や自動車化歩兵の部隊は少なかった。第二次大戦後にアメリカをはじめとする西側諸国では、朝鮮戦争の経験や冷戦を背景としながら電撃戦の教義の問題を見直して再構築する研究が進められた。その研究成果として部隊の機械化と諸兵科連合に基づいた新しい電撃戦の教義を開発しており、中東戦争においてイスラエルではオールタンク・ドクトリン、エア・ランド・バトル縦深突撃(charge in depth)の教義を実践している。さらに、冷戦後のイラク戦争でも米英軍によって電撃作戦が行われ、短期間のうちにイラク軍を無力化することに成功している。
電撃戦の原理バルバロッサ作戦(1941年6月22日 - 12月)

電撃戦で鍵となるのは、戦闘が拡大している間勢いを持続させるために、をより高度な意思疎通能力と指揮能力を持つ機械化部隊として組織することであった。この考え方の基礎となったのは、全ての戦力を敵前線のただ一点に集中させて、その後砲兵歩兵によって穴を開けるという、第一次世界大戦においても十分通用した方法、そして、従来の爆撃機への指令を司令部の要請からでなく、前線部隊の要請を中心とした近接攻撃に集中して、敵部隊に強烈な打撃を与える複合的行動であった。一旦前線に穴が開くと、戦車が侵入し前線の数百マイル後方にまで侵入できた。これにより攻撃側は敵の脆弱点(安易に破壊または破壊されると著しい損害を受ける地点)つまり、軽武装兵站部隊、または前線司令部などの敵中枢を攻撃でき、敵の情報を遮断し補給を途絶、あわよくばそのままその戦線で勝利する事さえできた。この方法によれば、可能な限り戦闘を避けつつ、敵を混乱させることで小規模の軍で大規模な敵軍を撃破できた。

航空機が長距離砲の代わりとして敵の拠点を破壊、兵力の集中を奪い、攪乱・制圧する。次に無線通信を受けて戦車・自動車化歩兵諸兵科連合部隊が、敵が陣地防御を準備する前に突撃し、敵陣深くに侵入するというもので、この際、進撃する部隊は突破口の確保に兵力を使用せず、進撃速度を最大限に上げる。従来の戦法と最も異なるのは、指揮権の権限委譲である。現場指揮官は、従来の中央集権的な指揮系統に頼るよりも、自らの判断に従うよう奨励された。

電撃戦では、いたずらに猛進するだけでは全ての防衛線を突破できずに行き詰まり、立ち直った敵軍により包囲される危険がある。したがって、敵の戦意をくじくための準備をし、明確な攻撃目標(重点)を設定することが欠かせない。何故なら、この戦法は敵戦力を撃滅するためでなく、あくまで敵の脆弱点を破壊し全体を混乱させる戦法であり、敵部隊は士気を除いてほとんど物理的損害を受けないからである。
類似する事例
1939年 ドイツ対ポーランド戦ポーランド侵攻#戦闘の詳細9月1日から9月14日までの戦いの経過。ドイツ軍が殲滅戦理論 (Vernichtungsgedanke) に則って進撃している。詳細は「ポーランド侵攻#戦闘の詳細」を参照

航空機機動力が発揮された近代戦で、その決着が早かったため電撃戦のように広く誤解されているが、厳密には前線全てにおいて圧倒的物量の投入による各個包囲撃破を狙った殲滅戦であった。電撃戦は、敵中枢部への縦深集中攻撃を必要条件とするが、ポーランド侵攻はこれを全く満たしておらず、実際はその反対で敵の各個包囲撃破を目的としたものであり、電撃戦とは全く異質のものである。また、ポーランド侵攻が短期間で成功したのは、東方からのソ連赤軍の侵攻により、長期戦に備えていたポーランド軍を挟撃することに成功したのが最大の要因である。
1940年 ドイツ対フランス戦ナチス・ドイツのフランス侵攻詳細は「ナチス・ドイツのフランス侵攻」を参照

真の電撃戦とはこれだけであるといわれる戦闘。戦域・状況・権限といった電撃戦の戦闘におけるエッセンスが凝縮された電撃戦の有効性を示す戦いの一つ。

古来のシュリーフェン・プランを欺瞞するためのB軍集団マジノ線に対するC軍集団、そしてアルデンヌの森を突破する主力のA軍集団により構成されたナチス・ドイツ軍は、電撃戦によりフランス陣地を突破し、敵に連携・陣地構築・防衛といった時間的な余裕を与える間も無く包囲、イギリス軍を大陸から撤退させフランスを屈服させることに成功した。
1941年 ドイツ対バルカン半島詳細は「ユーゴスラビア侵攻」を参照

フランス侵攻に次いで電撃戦を成功させ、僅か10日間でユーゴスラビアを制圧した。
1941年 ドイツ対ソ連戦(バルバロッサ)詳細は「バルバロッサ作戦」を参照

ナチス・ドイツ乾坤一擲の一大作戦。ソ連の大地のインフラは劣悪かつ広大な面積を有するために電撃戦を行うにはドイツ国防軍の装備、特に補給や防寒具などに関する準備が足りていなかった。自動車化が遅れている中、前線に投入する部隊数を増やしたことの問題が一気に噴出。速度に合わせた補給が不可欠である電撃戦の要諦は戦闘開始後程なくして頓挫することとなり、ヒトラーのゆれる命令の下、指揮官たちは動揺し効果的な電撃戦が成功したとは言えず、再びポーランド戦に近いものとなった。

はやい冬の訪れによる行軍・補給の遅滞は戦闘継続に決定的な打撃を与え、赤軍の激しい抵抗の中、電撃戦は影をひそめる。広大な国土の中で真の目的地を見失い、分散した兵力はやがてすべての目的地の前で足踏みすることになる。
1942年 ドイツ対ソ連戦(ブラウ)詳細は「ブラウ作戦」を参照

決定的な勝利を得るために、限定された戦力において、攻略地点を南部に定めヒトラーの言う「戦争経済」を主とした攻略目的として再び、機甲師団を中心とした電撃戦を敢行。赤軍は前年の失敗から地の利を利用した大規模な撤退を行い、コーカサス地方は膠着。スターリングラードが焦点となることにより電撃戦ではなくヒトラーが恐れていた「市街戦」となり、果てることのない戦闘によって消耗。やがて冬季が訪れると脆弱な側面から二重包囲され、軍団が包囲・殲滅されるという戦史に残る無残な大敗北を喫する。
1944年 ソ連対ドイツ戦(バグラチオン)バグラチオン作戦。1944年6月22日 - 8月29日の戦線。朱色は作戦第一段階。オレンジは第二段階におけるソ連軍の進撃。黒はドイツ軍の反撃。詳細は「バグラチオン作戦」および「縦深攻撃」を参照


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