電子音楽
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例えば、宮城道雄の発明による八十絃に電気増幅器(アンプ)を付ける試み(1929年)や、長唄奏者の四世杵屋佐吉(本名・武藤良二)と楽器製作師の石田一治の共同製作による三味線をマイクロフォンとアンプで増幅する電子楽器「咸絃(かんげん)」の製作(1931年)[3]、ドイツ留学経験のある日本楽器の若手技師 山下精一がテルミン等にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器「マグナオルガン」(1935年)[4]等が挙げられる。
第二次大戦後:1940-50年代

第二次世界大戦後の数年間、電子音楽は進歩的な作曲家によって作曲され、従来の楽器の表現を超越する方法を実現するものとして迎えられた。

現代的な電子音楽の作曲はフランスで、1948年レコードを用いたミュージック・コンクレートの作曲から始まった。これは町の中の音など具体音を録音し、レコードで編集するものである。したがって最初のミュージック・コンクレート作品は、フランスでピエール・シェフェールピエール・アンリによってレコードを切断して作られた。その他アメリカでは、フランスから渡ったエドガー・ヴァレーズなどがミュージック・コンクレートなどより編集しやすいテープ音楽を製作している(デイヴィット・メイゾンとエアハルト・カルコシュカからの出典)。

一方で電気的に生成された音による電子音楽(この場合の電子音楽という言葉は狭義で、具体音を使うミュージック・コンクレートに対して、電子音のみの音楽という意味で使われる)が、ドイツケルンにある西ドイツ放送 (WDR)の電子音楽スタジオでテープを使って生まれた。こちらの分野ではカールハインツ・シュトックハウゼン[5]やゴットフリート・ミヒャエル・ケーニッヒ(ドイツ語版)が最初期から活躍し、シュトックハウゼンの「少年の歌」・「コンタクテ」などの傑作が生まれた。コンタクテの器楽合奏バージョンでは、早くもテープと器楽の生演奏とを組み合わせている点が注目される。)。シュトック・ハウゼンは「群の音楽」や「モメント形式」などの新しい概念を次々と考案し、「グルッペン」も作曲して、第二次世界大戦後の前衛音楽の時代において、フランスのピエール・ブーレーズ、イタリアのルイジ・ノーノらと共にミュージック・セリエルの主導的な役割を担った。

60年代後半以降は確定的な記譜法を離れ、自身の過去作品を出発点としてそれを次々と変容してゆく「プロツェッシオーン」や短波ラジオが受信した音形を変容してゆく「クルツヴェレン」などを作曲。更には、演奏の方向性がテキストの形で提示された「直観音楽」を提唱する。アロイス・コンタルスキーやヨハネス・フリッチェらの演奏家とアンサンブルを結成し、これらの音楽を演奏した。少し遅れてハンガリーから亡命したジェルジ・リゲティも参加し、初期の管弦楽曲「アパリシオン」や「アトモスフェール」、「ロンターノ」の作曲技法の大きな指針となった。イタリア国立放送RAIの電子音楽スタジオでは、ルチアーノ・ベリオ(「ジョイスへのオマージュ」「ヴィザージュ」)、ブルーノ・マデルナなどが活躍した。

当時のドナウエッシンゲン現代音楽祭ではフランス人はレコードを、ドイツ人はテープをそれぞれ持参して自作を発表した。この少し後、ポーランドのクラクフクシシュトフ・ペンデレツキらは独自に電子音楽を研究し、「広島の犠牲者に捧げる哀歌」などを作曲する技術(トーン・クラスター)を開拓している。作曲者本人へのインタビューによると、彼の初期の優れた器楽作品群は電子音楽なしでは全く考えられなかったとのことである。ミュージック・コンクレートと、狭義の電子音楽とをまとめてテープ音楽と総称する。

日本には黛敏郎がミュージック・コンクレートと電子音楽をいち早く日本に紹介した。

1954年にNHK電子音楽スタジオが設立され、翌年には最初の電子音楽作品、黛 敏郎「素数の比系列による正弦波の音楽」「素数の比系列による変調波の音楽」「鋸歯状波と矩形波のためのインヴェンション」が作られた。1966年シュトックハウゼンが来日し作品「テレムジーク」を作るなど、世界的に見てもNHK電子音楽スタジオの功績は大きい。作曲家では諸井誠、武満徹湯浅譲二松平頼暁などがここで活躍した。

武満や湯浅はNHKスタジオにかかわる以前から、東京通信工業ソニーの前身)から開発されたばかりのテープレコーダーおよびそれとスライド写真を組み合わせたオートスライドを借りてきて、その機械を使ってテープ音楽を製作していた。また彼らの属する芸術家グループ実験工房で、それらテープ音楽やオートスライドの作品発表会を行っている。これらの活動は草の根ながら、世界的に見てもテープ音楽の歴史の初期にあたり先鋭的な活動をしていたことを意味する。

コンピュータを作曲上のパラメータを決定する自動作曲に用いた最初の例としては、レジャレン・ヒラー(英語版)とレオナルド・アイザックソン(英語版)による、イリノイ大学のコンピュータILLIAC I を使った「イリアック組曲」 (1957年)が挙げられる。

コンピュータを、リアルタイム動作のシーケンサないしシンセサイザとして使用する試みは、日本では1950年代末にパラメトロンコンピュータPC-1を使用して矩形波で「春の小川」を奏でた[6]のが最初期の例であるが、世界各所で、また新しいタイプのコンピュータが現れるごとに[7]おこなわれてきた。

コンピュータの音響合成への使用は、1957年ベル研究所のマックス・マシューズによるプログラムMUSICが始まりとされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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