電子音楽
[Wikipedia|▼Menu]
テルミンとほぼ同時期、光学式で音と映像を同時生成するパフォーマンス用楽器「オプトフォニック・ピアノ」が未来派画家ウラジミール・ロッシーネ(英語版)により開発され、これとよく似た光学式の楽器は1930年代前後にフランス、ソ連、アメリカ、ドイツ等で次々と開発された[2]。これらは映画フィルム中に音声信号を光学的に「焼き込んだ」ものであるサウンドトラック (サウンドトラック#光学式サウンドトラックを参照)のパターンを人工的に描いて人工的な音を生成するもので電子的に合成しているわけではないが、理論的にはあらゆる音を作ることができる。映画フィルムではなくパターンを切り抜いた円板を使ったものもあった。1928年、オンド・マルトノという電子楽器がフランスのモーリス・マルトノによって発明された。これはテルミンと同様に単音で奏される楽器であったが、音程は糸(リボン)によりコントロールする。この楽器は、トーン・フィルターで正弦波を加工することで作った音を、弦、シンバル等の様々な加工を施したスピーカーから出力する。オリヴィエ・メシアントゥランガリーラ交響曲の中で使われ、現在でもしばしば演奏される。1930年には、フリードリッヒ・トラウトバインがテルミンやマルトノをさらに進化させたトラウトニウムを開発する。使用例として、ヒンデミットのトラウトニウムと弦楽の為の協奏曲等がある。1934年には倍音加算合成を採用したハモンド・オルガン、1937年には減算合成を採用したハモンド・ノバコードが開発される。

戦前の日本においても、これらの動向から隔絶されていたわけではなく、時として欧米のこれらの成果と同期した事例を見ることが出来る。例えば、宮城道雄の発明による八十絃に電気増幅器(アンプ)を付ける試み(1929年)や、長唄奏者の四世杵屋佐吉(本名・武藤良二)と楽器製作師の石田一治の共同製作による三味線をマイクロフォンとアンプで増幅する電子楽器「咸絃(かんげん)」の製作(1931年)[3]、ドイツ留学経験のある日本楽器の若手技師 山下精一がテルミン等にヒントを得て開発した、各種楽器音を再現可能な鍵盤楽器「マグナオルガン」(1935年)[4]等が挙げられる。
第二次大戦後:1940-50年代

第二次世界大戦後の数年間、電子音楽は進歩的な作曲家によって作曲され、従来の楽器の表現を超越する方法を実現するものとして迎えられた。

現代的な電子音楽の作曲はフランスで、1948年レコードを用いたミュージック・コンクレートの作曲から始まった。これは町の中の音など具体音を録音し、レコードで編集するものである。したがって最初のミュージック・コンクレート作品は、フランスでピエール・シェフェールピエール・アンリによってレコードを切断して作られた。その他アメリカでは、フランスから渡ったエドガー・ヴァレーズなどがミュージック・コンクレートなどより編集しやすいテープ音楽を製作している(デイヴィット・メイゾンとエアハルト・カルコシュカからの出典)。

一方で電気的に生成された音による電子音楽(この場合の電子音楽という言葉は狭義で、具体音を使うミュージック・コンクレートに対して、電子音のみの音楽という意味で使われる)が、ドイツケルンにある西ドイツ放送 (WDR)の電子音楽スタジオでテープを使って生まれた。こちらの分野ではカールハインツ・シュトックハウゼン[5]やゴットフリート・ミヒャエル・ケーニッヒ(ドイツ語版)が最初期から活躍し、シュトックハウゼンの「少年の歌」・「コンタクテ」などの傑作が生まれた。コンタクテの器楽合奏バージョンでは、早くもテープと器楽の生演奏とを組み合わせている点が注目される。)。シュトック・ハウゼンは「群の音楽」や「モメント形式」などの新しい概念を次々と考案し、「グルッペン」も作曲して、第二次世界大戦後の前衛音楽の時代において、フランスのピエール・ブーレーズ、イタリアのルイジ・ノーノらと共にミュージック・セリエルの主導的な役割を担った。

60年代後半以降は確定的な記譜法を離れ、自身の過去作品を出発点としてそれを次々と変容してゆく「プロツェッシオーン」や短波ラジオが受信した音形を変容してゆく「クルツヴェレン」などを作曲。更には、演奏の方向性がテキストの形で提示された「直観音楽」を提唱する。アロイス・コンタルスキーやヨハネス・フリッチェらの演奏家とアンサンブルを結成し、これらの音楽を演奏した。少し遅れてハンガリーから亡命したジェルジ・リゲティも参加し、初期の管弦楽曲「アパリシオン」や「アトモスフェール」、「ロンターノ」の作曲技法の大きな指針となった。イタリア国立放送RAIの電子音楽スタジオでは、ルチアーノ・ベリオ(「ジョイスへのオマージュ」「ヴィザージュ」)、ブルーノ・マデルナなどが活躍した。

当時のドナウエッシンゲン現代音楽祭ではフランス人はレコードを、ドイツ人はテープをそれぞれ持参して自作を発表した。この少し後、ポーランドのクラクフクシシュトフ・ペンデレツキらは独自に電子音楽を研究し、「広島の犠牲者に捧げる哀歌」などを作曲する技術(トーン・クラスター)を開拓している。作曲者本人へのインタビューによると、彼の初期の優れた器楽作品群は電子音楽なしでは全く考えられなかったとのことである。ミュージック・コンクレートと、狭義の電子音楽とをまとめてテープ音楽と総称する。

日本には黛敏郎がミュージック・コンクレートと電子音楽をいち早く日本に紹介した。

1954年にNHK電子音楽スタジオが設立され、翌年には最初の電子音楽作品、黛 敏郎「素数の比系列による正弦波の音楽」「素数の比系列による変調波の音楽」「鋸歯状波と矩形波のためのインヴェンション」が作られた。1966年シュトックハウゼンが来日し作品「テレムジーク」を作るなど、世界的に見てもNHK電子音楽スタジオの功績は大きい。作曲家では諸井誠、武満徹湯浅譲二松平頼暁などがここで活躍した。

武満や湯浅はNHKスタジオにかかわる以前から、東京通信工業ソニーの前身)から開発されたばかりのテープレコーダーおよびそれとスライド写真を組み合わせたオートスライドを借りてきて、その機械を使ってテープ音楽を製作していた。また彼らの属する芸術家グループ実験工房で、それらテープ音楽やオートスライドの作品発表会を行っている。これらの活動は草の根ながら、世界的に見てもテープ音楽の歴史の初期にあたり先鋭的な活動をしていたことを意味する。

コンピュータを作曲上のパラメータを決定する自動作曲に用いた最初の例としては、レジャレン・ヒラー(英語版)とレオナルド・アイザックソン(英語版)による、イリノイ大学のコンピュータILLIAC I を使った「イリアック組曲」 (1957年)が挙げられる。

コンピュータを、リアルタイム動作のシーケンサないしシンセサイザとして使用する試みは、日本では1950年代末にパラメトロンコンピュータPC-1を使用して矩形波で「春の小川」を奏でた[6]のが最初期の例であるが、世界各所で、また新しいタイプのコンピュータが現れるごとに[7]おこなわれてきた。

コンピュータの音響合成への使用は、1957年ベル研究所のマックス・マシューズによるプログラムMUSICが始まりとされる。その後継プログラムは各地に広がり、信号処理や音響合成の研究に使用され、1967年のFM音源の原理の発見や、1970年代のデジタル・シンセサイザー開発に繋がった。
1960-70年代

その後初期のアナログ・シンセサイザーの発明(特にモーグ・シンセサイザー)により電子音楽が広く一般化し、クラシック系現代音楽以外にも多くの音楽ジャンルで用いられた。日本では冨田勲がアナログ・シンセサイザーを多く用いた作曲家として有名である。

テープレコーダーが比較的安価になり一般の手にも触れるようになったため、大学や放送局などの研究機関とかかわりのない在野の作曲家たちもテープ音楽の制作に参加できるようになった。スティーヴ・ライヒは、同じ録音で同じ長さのテープループを用い、同時に再生することでわずかな回転数のずれからディレイが生まれ、2つの周期がずれていくことに注目し、「カム・アウト」「イッツ・ゴンナ・レイン」などのテープ作品を生み出した。これがやがてミニマル・ミュージックのアイデアにつながっていく。

イアニス・クセナキスは1972-1977年にかけ、パリのフランス郵政省内のCEMAMu(数理的自動音楽研究センター)で、タブレットボードに線を描いて入力した図形を電子音響処理する装置UPIC(ユーピック)を開発し、湯浅譲二高橋悠治及び嶋津武仁といった日本の作曲家たちの創造力を大いに刺激した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef