享保2年(1717年)8月1日出生。生母は斉藤氏。徳川宗将の異母姉で、熊本藩主細川宗孝の正室である喜姫の同母姉にあたる。同6年(1721年)に疱瘡、同15年(1730年)に麻疹を患う。
享保18年(1733年)より仙台藩主伊達吉村の嗣子である伊達宗村との縁談が進められ、享保20年(1735年)4月23日に徳川吉宗の養女となって将軍家に入り、同年5月7日に宗村と婚約し、同年11月28日に婚礼を挙げる。
婚約の正式発表とともに、徳川将軍家の娘を正室に迎える慣例により同年、愛宕下の江戸藩邸中屋敷の一角に幕府指導の下、御守殿が造営される。また仙台領内での「とね」と称する女性名の禁止、および利根姫の敬称を将軍養女である点を考慮して「姫君様」と呼ぶよう通達された。また、利根姫の年間経費を6000両と決定された。
元文2年(1737年)閏11月15日に温子と改名。元文4年(1739年)に源姫を出産。源姫は後に佐賀藩主鍋島重茂の正室となる。なお「寛政重修諸家譜」の伊達氏系図の記述では何故か元文元年(1736年)に娘の源姫とともに江戸城大奥に参ったとある。
寛保3年(1743年)に夫の宗村が吉村の隠居を受けて仙台藩主を相続すると、芝口の江戸藩邸上屋敷奥方[3]が中屋敷の御守殿に準じて改築され、延享2年(1745年)に温子は上屋敷に移る。同年12月3日に2番目の女児を出産するが夭折し、本人も同年閏12月16日に死去した。戒名は雲松院殿梅月浄馨大姉。墓所は大年寺。 将軍家の養女は実子同様に扱われ、婚礼後も幕府より姫様方用人などの直臣の官吏が派遣される。役人から駕籠かきまで49人、女中69人に及ぶ。幕府出向者は利根姫死去以降は幕府に戻った。また、仙台藩側からも利根姫専属の御守殿付役人95人が任命された。なお、「寛政重修諸家譜」によると寛保3年(1743年)から延享2年(1745年)まで川勝光隆が利根姫様方用人を勤めている。 元文6年(1741年)刊行の武鑑での利根姫の付属官吏は以下のとおり。なお、武鑑の掲載都合により、実際とは若干の差がある場合がある。
幕府側官吏
元文六年武鑑掲載の幕府側官吏
【同(利根姫様)用達】山本又十郎
【同(利根姫様)侍衆】今井甚之丞、鈴木文次郎、萩原権九郎、馬場三左衛門、鈴木傳七郎
【同(利根姫様)台所番】清水忠次郎
脚注^ 「仙台叢書 第一巻」の『伊達略系』
^ 掲載は同書70頁。図版47号
^ 仙台藩では幕府の大奥にあたるものを、奥方と呼び、特に仙台城の奥方を中奥というと『仙台市史 通史5 近世3』にある
参考文献
堀内信『南紀徳川史 第2巻』(昭和5年(1930年)12月28日刊行)
橋本博『大武鑑 中巻』(名著刊行会)
『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
『仙台市史 通史4 近世2』(平成15年(2003年)・仙台市史編さん委員会)
『仙台市史 通史5 近世3』(平成16年(2004年)・仙台市史編さん委員会)
『仙台叢書 第一巻』(仙台叢書刊行会、大正11年(1922年)発行)