雨ニモマケズ
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この項目では、宮沢賢治の詩について説明しています。その他の用法については「雨ニモマケズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
宮沢賢治の手帳に記された『雨ニモマケズ』

『雨ニモマケズ』(あめニモマケズ)は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモである。一般にはとして受容されている。広く知られており、賢治の代表作のひとつともされるものである。

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きである。対句のような表現が全編にわたって用いられ、最後のセンテンスになるまで主語(私)が明かされない。
執筆から発表まで

東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、花巻の実家に戻って闘病中だった1931年昭和6年)秋に使用していた黒い手帳に鉛筆で記されていたものである。冒頭部のページ上部に青鉛筆で「11.3.」の書き込みがあることから、同年11月3日に執筆したと推定されている。

全166ページの手帳は全体として自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっており、本作は51ページ目から59ページ目にかけて書かれている[注 1]。この手帳は今日、研究者からは「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる。賢治の生前には手帳自体の存在が家族にすら知られておらず、本作も未発表のままであった。

この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌1934年2月16日に東京・新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上である。この会合には、招かれた賢治の弟・宮沢清六が賢治の遺品である大きな革トランク(上記の壁材セールスの際にも使用した)を持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し他の参会者にも回覧された。その模様を、同席していた詩人の永瀬清子が後に「この手帖がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」と書き記している[1]

手帳の横にある鉛筆を入れる筒部分には、法華経への帰依をうたった短歌が書かれたメモが細く丸めて入れられていた。

没後1年を記念した1934年9月21日付の『岩手日報』夕刊の学芸第八十五輯「宮沢賢治氏逝いて一年」に「遺作(最後のノートから)」と題して掲載された。続いて1936年7月、日本少国民文庫の「人類の進歩につくした人々」(山本有三編)に収録された。この間、1934年 - 1935年にかけて最初の「宮沢賢治全集」(文圃堂)が刊行されているが、こちらには本作は掲載されていない。

1936年11月には花巻に本作を刻んだ詩碑(後述)が建立され、1939年刊行の児童向け作品集「風の又三郎」(羽田書店)への収録などによって広く世に知られるようになる。

手帳は、2007年7月 - 同年10月に賢治の描いた絵画などとともに国内各所で公開された。手帳の公開は1995年と1996年の公開から12年ぶりとなる。

2011年4月11日、ワシントンのナショナル大聖堂において、東日本大震災の犠牲者を悼むための宗派を超えた追悼式が開かれ、サミュエル・ロイドIII世大聖堂長により本作が英語で朗読されている[2]
評価・解釈
「雨ニモマケズ」論争

太平洋戦争前から戦中にかけて賢治の研究・紹介を行った哲学者の谷川徹三は、主としてテーマ的な側面から本作を高く評価し、賢治に対する「偉人」的評価の象徴として本作を捉える流れを先導した[3]。これに対して戦後、賢治の置かれた社会的立場と文学性を踏まえた評論を行った詩人の中村稔は本作について「ふと書き落とした過失のように思われる」と評し否定的な立場を表明する[4]1963年、谷川が雑誌『世界』に寄稿した「われはこれ塔建つるもの」の中で中村の論考を批判、中村も『文藝』に反論「再び『雨ニモマケズ』について」を掲載したことから、世間ではこれを「雨ニモマケズ」論争と称した[5]。それぞれの内容は同年刊行された両者の単行本(谷川は『宮沢賢治の世界』(法政大学出版局)、中村は1955年版の増補改訂となる『定本・宮沢賢治』(七曜社))にも収録された。この「論争」は賢治の作品の受容においてどの点を重視するかという差に帰するものであり、研究史の上では(個々の著作自体の意義とは別に)積極的な意義を持つものではなかった。中村は2012年に刊行した回想録で「不毛な論争だった」と述べている[5]
「ヒデリ」か「ヒドリ」か

最初の発表時から「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」とされている箇所は、手帳の原文では「ヒドリノ……」と書かれている。これは清六はじめ、歴代の全集編集者が誤記とみなして校訂してきたものであるが、1980年代後半に花巻農学校での賢治の教え子の一人が「農家にとって日照は喜ぶべきものであり、『ヒドリ』は日雇い仕事の『日取り』を意味するもので『日雇い仕事をせざるを得ないような厳しい暮らしのとき』と原文通りに読むべきである」との説を提起した。これに対しては、「校本宮澤賢治全集」の編集者で草稿調査を行った詩人の入沢康夫が以下のような、校訂の根拠を提示した。

他の詩で「ひど」と書いて消し、「ひでり」に直しているものがある。賢治には「デ」を「ド」に誤記する書き癖があった。

次の行「サムサノナツハオロオロアルキ」と対照にならず、本作の他の箇所でも多用されている対照の手法からここだけはずれてしまう。

確かに農家にとって日照は重要であるが、過剰な日照による旱魃へのおそれは賢治も複数の作品で取り上げている。

研究者の間ではこの説明に沿って「ヒデリ」(日照り)への校訂がほぼ定着しているが、愛好者のレベルでは「ヒドリ」と読むべきだという人が存在している。それらの中には、「日取り」とは異なる根拠で校訂を不要とする以下のような見解がある。
「デ」と「ド」の誤記という見解について賢治の他の文章にそのような箇所があったとしても、手帳がそうであったとは言えないとするもの。手帳の本文をみると、何箇所かに修正が入っている。(例)ヨクワカリ→ヨクミキキシワカリもし「ヒデリ」を「ヒドリ」と誤っていたのであれば賢治は当然修正しているはずであり、賢治がそれを敢えてしていない[6]ということは賢治は「ヒドリ」と書いたと理解すべき。この指摘に対しては、入沢康夫は、この手帳全体について行われた手直しは書きながらのものだけで、後から見直して行った修正はないと推測される(他の箇所で「諸仏ニ報ジマツマント」(正しくは「諸仏ニ報ジマツラント」)という誤記がそのままになっている)ことを指摘している[7]

冷夏と旱([訓]ひでり)を「対応」させるのが妥当だという説明について、「ヒドリ」でも十分対応しているとするもの。下記のような岩手県在住者の証言が2004年に地元紙『盛岡タイムス』に掲載された。

猛暑・炎熱によって目の炎症になることを「ヒドリマゲ」とも言い、今でも電気溶接者などが使用している。


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