-NHK版フジテレビ版PDDVD版
演出好川あつし春日正伸粂田剛
翻訳榎あきら別所里織
調整山田太平堀井義文
制作オムニバスプロモーション株式会社ワールドピクチャー
楽曲左からオコナー、レイノルズ、ケリー
元々アーサー・フリード作詞、ナシオ・ハーブ・ブラウン作曲によるコンビが手掛けた曲を集めた作品として企画されたため、楽曲の大半は過去のMGMミュージカル映画で使用された曲の流用である[14]。新曲は2曲のみ。
特に明記されていない限り、曲はすべてフリード作詞、ブラウン作曲である[15]。書き下ろし曲は太字で表記。表題曲「雨に唄えば」はこちらを参照。
ピンピンしてる/フィット・アズ・ア・フィドル(Fit as a Fiddle) - フリード作詞、アル・ホフマンとアル・グッドハート作曲による、1932年発表の楽曲。
テンプテーション(Temptation) - 初出は1933年公開『虹の都へ』。本作ではインストゥルメンタルのみ。
あなたの夢ばかり(All I Do Is Dream of You) - 初出は1934年公開『蛍の光』。
奴らを笑わせろ/メイク・エム・ラフ(Make 'em Laugh) - フリード作詞、コール・ポーター作曲「ビー・ア・クラウン」のパロディ曲。ドーネンには「100%盗作」といわれたが、ポーターから訴えられることはなかった[16]。
邦題不明(I've Got a Feelin' You're Foolin') - 初出は1935年公開『踊るブロードウェイ』。
君は僕のために生まれてきた/ユー・ワー・メント・フォー・ミー(You Were Meant For Me) - 初出は1929年公開『ブロードウェイ・メロディ
MGMスタジオのミュージカル部門の責任者であったアーサー・フリードは、彼自身が作詞し、ナシオ・ハーブ・ブラウン
(英語版)が作曲した1929年の同名楽曲に基づいた映画を作ることを考案。二人のコンビによる過去のヒット曲を集めたミュージカルとして企画された。脚本は当初、1928年公開の映画『好いて好かれて(英語版)』の翻案した内容であり、1949年にプロットが完成するも、同年内に企画は一度中断する[4][17]。1950年末、フリードは題名と自身の曲を使う考えはそのままに、オリジナル脚本で製作することに方針を変えて企画が再始動する。そのアイデアを、作詞ができる脚本家としてコンビで活躍していたベティ・コムデンとアドルフ・グリーンに伝え、二人はフリードの曲を聴き続けながら脚本執筆にとりかかった[4][18]。二人は当初、フリードによる「『雨に唄えば』をはじめ過去に作った20曲以上の歌すべてが出てくる映画を作ってほしい」という指示に困惑したという[19]。
コムデンとグリーンは、物語の時代設定を『雨に唄えば』をはじめフリードが多くの曲を発表し、サイレント映画がトーキーに取って代わられミュージカル映画が人気だったハリウッドにすることにした。この時代は、二人が幼少から思春期を過ごし多くのハリウッドに関する出来事を知っていたこともあり、アイデアは豊富にあったという。当初、ハワード・キールが主演候補と聞いた二人は、かつて売れない西部劇俳優だった男が歌うカウボーイとして成功する物語を作り上げようとしたが、次第に俳優ジョン・ギルバートの経歴に触発され、冒険活劇のヒーローだった俳優が得意な歌と踊りを活かしサイレントからトーキーへの移行を生き残るという物語に変わっていった。同時に、二人は「これはジーン・ケリーにふさわしい物語である」と考えるようになったという[4][17][20]。 ジーン・ケリーは当初、スタンリー・ドーネンと共に『巴里のアメリカ人』の製作に没頭していたため、このプロジェクトに参加していなかった[21]。撮影を終えたケリーとドーネンは、古くからの付き合いであるコムデンとグリーンの脚本に興味を示したことでプロセスはスムーズに進み、すぐにスクリプトの書き直しと調整に関与するようになった[4]。 ケリー演じるドンの相棒コズモ役に、フリードは当初オスカー・レヴァント
キャスティング
ドンの恋人キャシー役には、当時女優としてのキャリア、ダンス経験が共に浅かったデビー・レイノルズが抜擢された。これは、彼女がMGM所属で、同社からスターを作りたいと考えたルイス・B・メイヤーの意向が大きかったとされる。キャリアの浅さに反し起用されたレイノルズにケリーは不満を表したとされる一方、ケリーとドーネンはレイノルズが歌う「アバ・ダバ・ハネムーン(Aba Daba Honeymoon)」を聞いて以来、彼女がキャシー役に最適と考えていたともされる[4]。
リナ役に関して、当初コムデンとグリーンは親友だったジュディ・ホリデイを念頭に置いて脚本執筆をしていたが、彼女が既に大物になりすぎていたことなどから、最終的にMGM所属の女優だったジーン・ヘイゲンが選ばれた[4]。 撮影は、様々な場面を同時進行で行っていた。また、現場ではケリーとドーネンが「素晴らしい相互依存であり自立的関係でもあった」ことから、それぞれ別のシーンを撮影することもあったという[4]。「雨に唄えば」の歌唱場面 有名な「雨に唄えば」を踊り歌う場面の撮影時、ケリーは39.4度の高熱をだしていた[22][23]。
エピソード