現在の町名で難波と付くものには、
中央区
難波一丁目
難波二丁目
難波三丁目
難波四丁目
難波五丁目
難波千日前
浪速区
難波中一丁目
難波中二丁目
難波中三丁目
がある。
Osaka Metroの難波駅(四つ橋線は除く)・大阪難波駅・島屋・なんばマルイが難波に、千日前道具屋筋商店街やなんばグランド花月(吉本会館)、YES-NAMBAビル(よしもと漫才劇場、NMB48劇場)が難波千日前に、なんばパークスや大阪府立体育会館が難波中に所在する。南海難波駅と同駅ホーム下に位置するなんばCITYは難波と難波中に跨っている。 かに道楽(右)を含む難波のパノラマ写真 上町台地の西部に位置し難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島之内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていた。現在ではほとんど難波と認識されることのない南船場に、難波別院・難波神社があるのはこのためである。近世に行われた大坂城下の拡張に伴い、上難波村はわずかに飛地としてその姿を残すほどとなり、大坂城下が幕府直轄地となる1619年(元和5年)には上難波村の人口は0人となっていた。下難波村は元和・寛永年間に行われた新町遊廓の開発に伴い、道頓堀川以南(現:浪速区元町)へ移転となった。1650年(慶安3年)には木津川沿いの地域が西成郡西側町となり、下難波村から分割された。なお、南船場には上難波○○町という町名が大正初期まで、堀江には新難波○○町という町名が近世まで見られた。そして、1700年(元禄13年)に上難波村飛地が下難波村に編入され、難波村と改称された。近世の難波村は藍の産地で知られ、濃色に優れる阿波産の藍に対して難波産の藍は薄色に優れ、難波水藍とも呼ばれた。 難波村のうち最も早く市街化されて大坂三郷へ組み込まれたのが、概ね現在の中央区難波に当たる難波新地(なんばしんち)である。大阪史上最大級の大火となった1724年(享保9年)の享保の大火の後に、天満橋南詰の本堺町・京橋1丁目・京橋北詰の相生西町と相生東町の一部が火除地となったため、その移転先として道頓堀の南西に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が置かれた。その後1765年(明和2年)にこれら3町と元伏見坂町(通称:坂町)の南側が開発され、ここに難波新地1 - 3丁目が形成された。 なんばむら 明治に入ると、1872年(明治5年)に坂町が南坂町に、難波新地1丁目が南坂裏町に改称され、翌年には南坂裏町が南坂町に編入され、現在の千日前1丁目に組み込まれて行くことになったが、一方で1872年(明治5年)に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が難波新地に編入され、難波新地一番町 - 四番町に再編。翌年には難波村のうち市街化が見られた区域も難波新地に編入され、難波新地一番町 - 六番町に再編。この明治初期に拡大された難波新地の範囲が概ね現在の中央区難波の範囲となっている。 1879年(明治12年)の郡区町村編制法により難波新地は大阪府南区に含まれ、1889年(明治22年)の市制施行によって、大阪市南区へ移行。
沿革
近世前期(難波村の移転)
近世後期(難波新地の誕生)
近代(難波新地の再編)
難波村
廃止日1897年4月1日
廃止理由編入合併
大阪市(南区)、西成郡難波村、西浜町、木津村(一部)、今宮村(一部)、東成郡天王寺村(一部)、生野村(一部) → 大阪市(南区)
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
郡西成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
隣接自治体大阪市(南区、西区)
西成郡三軒家村、川南村、西浜町、木津村、今宮村
難波村役場
所在地大阪府西成郡難波村大字難波
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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