難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義
の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。上述のように、桓武天皇が長岡京遷都にあたって後期難波宮の建築物を収去してしまい、更に平安京遷都が行われると、首都と瀬戸内海航路を結ぶ舟運ルートの主力は、平安京との交通至便なより北側を通る淀川右岸や神崎川流域に移行することとなり、奈良盆地の外港として栄えた淀川左岸の難波津の意義は相対的に小さくなった。また、「難波(なには、なんば)」という地名自体は、上町台地北端のみではなく、あちこちに見られる一般的な地名でもある。このことから、平安時代には、上町台地北端部ではなく別の地域の港湾が「難波津」と呼ばれていたのではないか、更に飛躍して、そもそも古代以来の難波津は現在の大阪市とは別のところに比定されるはずだと主張する説もごく一部に存在するようである。
脚注^ 北村優季「長岡平安遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7)
^ 西本昌弘「平安時代の難波津と難波宮」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3)
関連項目
難波津 (和歌)
大阪
摂津国
住吉津
住吉大社
津守氏
渡辺津
渡辺氏
みおつくし
八軒家船着場
四天王寺ワッソ
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