難波(なんば)は、大阪府大阪市中央区・浪速区に広がる大阪を代表する繁華街の一つ。または、中央区の町名。現行行政地名は難波一丁目から難波五丁目まで。 難波は大阪の2大繁華街の一つであるミナミに包含され、一般的にはその玄関口となる南海難波駅や難波駅 (Osaka Metro)、大阪難波駅(近鉄・阪神)周辺の繁華街を指す。梅田を中心とするキタと並んで大阪における商業の中心地である。「難波」という漢字は「なにわ」とも読めるため、駅の表記や施設の名称において平仮名の「なんば」を用いる例が見られる[5]。 難波には私鉄や地下鉄といった多数の鉄道路線が乗り入れ、ミナミの玄関口として機能している。難波駅は大阪・梅田駅に次ぐターミナル駅となっており、天王寺駅とともに大阪市の南玄関としての役割を二分している。北側に隣接する心斎橋や道頓堀・千日前などの周辺の地域も含めて広域的かつ一体的な繁華街ミナミを形成している。ミナミが島之内の西半(心斎橋駅界隈)から難波駅界隈までの広範な地域を指すのに対し、難波は概ね道頓堀以南・千日前以西の地域を指すことが多い(ただし繁華街としてのミナミや難波の地理的範囲が具体的に定義されているわけではなく、人によって指し示す範囲が多少異なることがある)。老舗や高級ブランド店が多い心斎橋と比べ、ミナミの玄関口でもある難波は多種多様な商店が混在し、雑多で賑やかな雰囲気を持つ。道頓堀と南海難波駅の間には複数の商店街が発達し、お好み焼きや串カツといった大阪グルメを提供する飲食店も多く、非常に活気のある街並みとなっている。なんばウォークやNAMBAなんなんといった地下街も発達しており、難波地区に位置する各駅を連絡する役割をもつ。さらに、南海難波駅は関西国際空港からの訪日外国人客の玄関口の役割を果たしており、大阪を象徴する風景として有名な道頓堀はインバウンド客のみならず国内の観光客からも人気の観光スポットである。そのため、同駅から道頓堀に至る戎橋筋商店街は多種多様な人種の通行客で賑わっている。 場合によっては道頓堀・千日前・宗右衛門町・湊町・日本橋を含めた地域まで指すこともあり、今宮・木津(今宮戎駅・大国町駅付近)といった南隣の地域にも難波を冠する施設等が散見される。難波地区に位置する他の駅と比べて、JR難波駅は繁華街からはやや距離があり、同駅は地下鉄難波駅や大阪難波駅と地下連絡通路(地下街)などでつながっているが、長年親しまれてきた湊町駅という旧駅名と所在地の浪速区湊町という町名から、同駅周辺は現在でも湊町と呼ばれることが多い。ただし、本来の湊町は道頓堀川南岸の一画に過ぎず、現行住居表示の湊町は大半がもと難波である。 現在の町名で難波と付くものには、 がある。 Osaka Metroの難波駅(四つ橋線は除く)・大阪難波駅・島屋・なんばマルイが難波に、千日前道具屋筋商店街やなんばグランド花月(吉本会館)、YES-NAMBAビル(よしもと漫才劇場、NMB48劇場)が難波千日前に、なんばパークスや大阪府立体育会館が難波中に所在する。南海難波駅と同駅ホーム下に位置するなんばCITYは難波と難波中に跨っている。 かに道楽(右)を含む難波のパノラマ写真 上町台地の西部に位置し難波の地名の由来となった西成郡難波村は、もともと南船場・島之内・下船場・堀江の一帯にあり、上難波村(南船場)と下難波村(その他)に分かれていた。現在ではほとんど難波と認識されることのない南船場に、難波別院・難波神社があるのはこのためである。近世に行われた大坂城下の拡張に伴い、上難波村はわずかに飛地としてその姿を残すほどとなり、大坂城下が幕府直轄地となる1619年(元和5年)には上難波村の人口は0人となっていた。下難波村は元和・寛永年間に行われた新町遊廓の開発に伴い、道頓堀川以南(現:浪速区元町)へ移転となった。1650年(慶安3年)には木津川沿いの地域が西成郡西側町となり、下難波村から分割された。なお、南船場には上難波○○町という町名が大正初期まで、堀江には新難波○○町という町名が近世まで見られた。そして、1700年(元禄13年)に上難波村飛地が下難波村に編入され、難波村と改称された。近世の難波村は藍の産地で知られ、濃色に優れる阿波産の藍に対して難波産の藍は薄色に優れ、難波水藍とも呼ばれた。 難波村のうち最も早く市街化されて大坂三郷へ組み込まれたのが、概ね現在の中央区難波に当たる難波新地(なんばしんち)である。大阪史上最大級の大火となった1724年(享保9年)の享保の大火の後に、天満橋南詰の本堺町・京橋1丁目・京橋北詰の相生西町と相生東町の一部が火除地となったため、その移転先として道頓堀の南西に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が置かれた。その後1765年(明和2年)にこれら3町と元伏見坂町(通称:坂町)の南側が開発され、ここに難波新地1 - 3丁目が形成された。 なんばむら 明治に入ると、1872年(明治5年)に坂町が南坂町に、難波新地1丁目が南坂裏町に改称され、翌年には南坂裏町が南坂町に編入され、現在の千日前1丁目に組み込まれて行くことになったが、一方で1872年(明治5年)に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が難波新地に編入され、難波新地一番町 - 四番町に再編。
概要
範囲
中央区
難波一丁目
難波二丁目
難波三丁目
難波四丁目
難波五丁目
難波千日前
浪速区
難波中一丁目
難波中二丁目
難波中三丁目
沿革
近世前期(難波村の移転)
近世後期(難波新地の誕生)
近代(難波新地の再編)
難波村
廃止日1897年4月1日
廃止理由編入合併
大阪市(南区)、西成郡難波村、西浜町、木津村(一部)、今宮村(一部)、東成郡天王寺村(一部)、生野村(一部) → 大阪市(南区)
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
郡西成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
隣接自治体大阪市(南区、西区)
西成郡三軒家村、川南村、西浜町、木津村、今宮村
難波村役場
所在地大阪府西成郡難波村大字難波
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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