汪景祺は年羹堯の私設の秘書で、西北部に駐軍していた年羹堯を訪問した際の見聞録『西征隨筆』には清朝を侮辱する言葉がならび、とりわけ康熙帝の漢文教養の低さを嘲笑する文章は、子の雍正帝をして激怒させた。年羹堯が雍正帝から自死を賜ると、汪景祺も連座して斬首に処され、妻子は奴隷身分に貶められた。[6] 郷試の監督として江西省に派遣された査嗣庭は、『詩經』の「維民所止」(維これ民の止むる所) を試験問題として出したところ、「維」と「止」がそれぞれ「雍」「正」の「?」と「一」を取り去ったもので、つまり雍正帝の首を刎ねることの暗喩だと誣告を受けた。雍正帝が査嗣庭の自宅を捜索させたところ、雍正帝を誹謗する日記などが押収され、査嗣庭は投獄された末に獄死した。さらに査嗣庭の死体は首を獄門に晒され、その子孫は流罪、さらに財産を没収された。この事件の背景には、査嗣庭がロンコド派に属していたことがあったとされる。中央官僚のロンコドは、西北で強大な軍事力を有する年羹堯と朋党を結成し、帝位を脅かす存在として雍正帝に警戒されていた。[7] 浙江人・呂留良は優秀でありながら清朝に奉仕することを潔しとせず、順治年間に在野の批評家に転身して以来、過激な攘夷発言を繰り返していた。その著書は呂留良の死後も、清朝を容認できない漢人層の支持をひろく集めていたが、湖南人・曾静も、呂留良の著書を読んで感銘を受けた者の中の一人で、自らの弟子を呂留良の弟子の許へ送り、清朝転覆を画策した。この一派は、年羹堯の後任として当時川陝総督の地位にあった岳鍾hに目をつけ、女真国家・金王朝に抗戦した宋代の武将・岳飛と同じ岳姓の者として、清朝転覆のための謀叛を起こせと岳鍾hを教唆したものの、当の岳鍾hによって計画が中央に通報された為、曾静はお縄となった。[8][5] 雍正帝は訊問を通じて、曾静が大変に単純な男であることに気づき、理屈攻めにして論破した挙句、両者間の問答を『大義覺迷?』という書物にまとめて出版させた。岳鍾hや官僚らの奏摺を雍正帝からみせられ、すっかり感激しきった曾静に対して、雍正帝はそれ以上の追及しなかったが、呂留良は棺桶を暴かれた上に晒し首となり、その子孫も斬首や流刑に処された。しかし一方で、呂留良の著書は雍正帝の勅命によりあえて発禁とはならなかった。この事件を通じて呂留良党の漢人は鳴りを潜めたという。[8][5].mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。大義覺迷?/卷一#二 雍正帝は、山西省の楽戸
査嗣庭の獄
呂留良の獄
奴隷解放
なお、制度としての奴隷階級は消滅したものの、奴隷に対する蔑視や生活環境の劣悪さはこれ以後も根強く残った[要出典]。仙人姿の雍正帝 明朝期以前においては、南京の音にもとづく南京官話が規範とされていた。清朝期になると、官話の中心は徐々に南京官話から北京音をもとにした北京官話へと移っていった。そのような中で、雍正帝は中央統制体制を強化するために北京官話の普及をはかり、官話政策を提議した。福建省に「正音書院 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
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外交
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18世紀初頭以来のチベットの混乱に対し、康熙帝は危機に陥った朝貢国を救援するという立場から介入、ジュンガルの占領軍を撤退に追い込み、ダライ・ラマ位をめぐる混乱を整理、グシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。しかし、グシ・ハン一族の内紛は深刻で、ハン位の継承候補者について合意に達することができず、康熙帝はラサン・ハン(英語版、中国語版)の死によって空位となったチベットのハン位を埋めることができないまま没した。洋装の雍正帝。雍正帝は仮装姿の肖像画を多く残しているラマ姿の雍正帝
雍正帝は、グシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性(グシ・ハン一族がジュンガルと組んで清朝と敵対した場合、アルタイ山脈から甘粛・四川・雲南にいたる長大なラインが前線と化す)などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転し、即位後ただちにグシ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、グシ・ハン一族を制圧した。