隼人の反乱
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律令制、特に国郡制の導入や班田収授法[1]を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。
反乱

養老4年(720年2月29日、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4日大伴旅人を征隼人持節大将軍に、笠御室と巨勢真人副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。

隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。

1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、養老5年(721年7月7日、副将軍らは隼人の捕虜を連れて都に戻った。隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1400人であったと伝えられている。反乱のため班田収授法の適用は延期されることになり戦乱から80年近く経過した延暦19年(800年)になってようやく適用されている。
関連遺跡隼人塚
隼人七城
隼人側が立て籠もった7ヶ所の城は『八幡宇佐宮御託宣集』によると、奴久等、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽於乃石城、比売之城であったとされている。このうち曽於乃石城は国分城と清水城、比売之城は姫木城橘木城であったと考えられているが、他の5城については国分平野付近に集中していたとする説と九州南部に広く分散していたとする説がある(現在の鹿児島県伊佐市中世まで牛屎院と呼ばれた)。
隼人塚、凶首塚
戦死者の霊を弔うため戦場近くに隼人塚、朝廷側の拠点であった豊前国には凶首塚(現在の宇佐市百体神社)が建てられた。
亀ノ甲遺跡
1953年(昭和28年)12月、霧島市の向花小学校拡張工事中に刀剣や土器などが発見され、隼人の反乱で殺害された国司の墓所ではないかと考えられている。
脚注^ ただし、班田収授法は朝廷に完全に服属して百姓・公民になった者に対して適用されるものであり、未だその要件を満たしていない隼人が班田収授法の対象になったとは考えられない(他所から移住した「百姓」への適用は検討されたことがあるがこれも実施されていない)ことから、班田収授法と隼人の反乱を結びつける事には否定的な見解もある。参照:宮原武夫「律令国家と辺要」『古代東国の調庸と農民』 岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-862-2 (原論文発表、1986年)

参考文献

井上辰雄 「隼人支配」 大林太良編 『日本古代文化の探求・隼人』 
社会思想社、1975年

国分郷土誌編纂委員会編 『国分郷土誌 上巻』 国分市、1997年

中村明蔵 『かごしま文庫29 ハヤト・南島共和国』 春苑堂書店、1996年、ISBN 4-915093-36-0

中村明蔵 「古代隼人の生活と文化」 志學館大学生涯学習センター編 『隼人学』 南方新社、2004年、ISBN 4-86124-021-2

中村明蔵 『隼人の古代史』 平凡社、2001年、ISBN 4-582-85119-3

三ツ石友三郎編 『隼人郷土誌』 隼人町役場、1985年

関連項目

隼人

日本の合戦一覧

隼人塚

征隼人持節大将軍

弥五郎どん:九州南部に伝わる伝説の巨人。そのモデルはこの反乱における隼人側の統率者であったとする言い伝えがある。


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