隠喩
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私は、世のです。私に従う者は、決しての中を歩むことがなく、いのちのを持つのです ? 新約聖書、『ヨハネによる福音書』 8:12

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか ? 新約聖書『マタイによる福音書』 5:13 ( 「地の塩、世の光」の記事も参照可)

仏教においても、仏陀は、相手に応じて比喩を巧みに用いて説いたとされ、メタファーに満ちた話が現在まで伝わっており、仏教圏の人々には広く浸透している。

涅槃経』第29巻では比喩を、順喩、逆喩、現喩、非喩、先喩、後喩、先後喩、遍喩の8種類に分類している。その中で、現喩は現前のものをもって表現する比喩で、遍喩は物語全体が比喩であるもののことである。

日本の仏教の文書にもメタファーは見出すことができる。

難思の弘誓は難度を度する大船、無礙の光明は無明のを破する惠日なり ? 親鸞『教行信証』総序冒頭部
メタファー観の歴史

初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで次のように述べている。「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」

西洋の伝統的な修辞学では比喩(転義法)が研究・分類されてきたが、その中でもメタファーは特に大きなテーマとして扱われている。

文芸においてはメタファーは一貫して称揚されている。

ただし、一時期、近代の言語学や論理学では、メタファーを周辺的な現象とし、批判的に見ることがあった。近代の哲学者の中には、メタファーによって説得しようとする議論を「非理性的なもの」として否定する者がおり、例えばホッブズロックは、メタファーに頼った議論を「ばかげており、感情をあおるものに過ぎない」などとして批判した。

だがこうした少数の意見を除けば、一般にメタファーは重視されており、文芸においては、ロマン主義以来は、理性を越えた想像力の発露であると見なされるようになった。
言語哲学におけるメタファー理解の変革

言語哲学では、「隠喩は言語において特殊な現象にすぎない」と見なす見解がかつて主流であり、その後に「隠喩はつねに言語の根源にある」とする見解が登場することになった。前者の見解は、ある意味で素朴で、そう見なす人のほうが多かった。例えば、古代ギリシャのプラトンや現代のオースティンなどは前者の見解を示した。

一方で、近代にはヴィーコ、現代ではマックス・ブラックが、異なった見解を示し、言語学者のロマン・ヤコブソンは、絵画文学映画あるいはなどの表現の中には、根本的な認知方式としてメタファーの作用があることを指摘した。

さらにその後、1980年にジョージ・レイコフマーク・ジョンソンが『レトリックと人生(英語版)』[注釈 2]を出版し、「メタファーは抽象概念の理解を支える根本的な概念操作である」「言語活動のみならず、思考や行動にいたるまで、日常の営みのあらゆるところにメタファーは浸透している[1]」と指摘し、多数の資料を提示しつつ分析してみせ、広範囲の支持を得て、学者らのメタファー観は大きく変わった。

メタファーは単なる言語の要素ではなく、人間の認知と存在の根幹に関わる要素だという認識がされるようになり、メタファーを基礎に据え、概念理解のしくみ・構造を解明しようとする研究が進められている。

政治においても、メタファーがもたらす影響について研究が盛んになってきている。

また、精神分析学者ラカンのメタファー・メトニミーへの言及が重要視されることがある。ポール・リクールも隠喩論を展開した。
関連する概念

物語全体で他の何かを暗示するように構成されたものは寓喩と呼ばれる。

概念の近接性に基づいて意味を拡張した表現はメトニミーまたは換喩という。「漱石を読んだ」、「風呂が沸いた」のような表現がこれにあたる。また概念の上下関係に基づいて意味を拡張した表現はシネクドキまたは提喩という。例えば「花見」という語における「花」は普通、桜の花を指している。

「…のようだ」「…みたいだ」のように、わざわざ比喩であることを明示する語や形式を用いている比喩は直喩と呼ばれる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ギリシア語ラテン翻字: metaphora
^ : Metaphors we live by

出典^ 『レトリックと人生』pp.2-4.


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