障子
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それが壁、遣戸などとともに寝殿の外との隔ての位置に出てくる[53]

鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子はちょうど画像16や画像19のように外側には蔀、または舞良戸が描かれ、現在のショウジ[注 2]に近づくが、『山槐記』にある指図にはアカリショウシとあるだけで、その外側に蔀なり舞良戸なりがあったのかどうかは判らない。従って鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子と同じかどうかは判らない。もちろん指図を書くのは内部の室礼の為で、従って視線は中から、そして明障子の外側までには関心が無かったということも考えられる。

当時の明障子に張られたのは和紙とは限らず、生絹(すずし)も使う[40][注 3]。一方で、その当時から障子紙は現在のもの程度の薄い和紙が使われていたという記録もある。清盛の外孫にあたる東宮、後の安徳天皇が満一歳なって平清盛の屋敷を訪れたときに、清盛に教えられるまま指につばをつけて明障子に穴をあけたことが『山槐記』に記されている[54][55]。感涙のあまり清盛はこの障子を保管するように命じた[56]
腰高障子

鎌倉時代の絵巻に現れる明障子はちょうど画像19のように、の下半分を填めたままにし、蔀の上の部分を開放して、そこから日差しを取り入れる姿が多い。この姿を障子1枚で実現したものが南北朝時代の観応2年(1351年)に描かれた本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』の僧房に描かれている。下半分を舞良戸仕立て、上は明障子で腰高障子と呼ぶ。画像17は当初二条城内に建てられた茶屋・聴秋閣であるが、中央の開いているその両側が腰高障子である。この腰高はは少し低く見えるが通常約80cmで、蔀の下半分とほぼ同じ高さである[57]
子持障子18:元興寺極楽坊の子持障子

鎌倉時代以降、蔀や舞良戸の内側に現在の障子に似た明障子がセットで用いられることが多くなるが、鉋が未発達で上下の溝を掘ることが大変だったために、ひとつの溝に二枚、三枚の明障子を填めることがある。これを一本溝子持、子持障子という[58]。子持でない場合もあるが、溝を掘る手間の削減ということで合わせて紹介する。
一枚のケース

溝ひとつに明障子一枚なら子持障子とは云えないが、問題は明障子の溝が2本ではなく1本しかないことがある。実例は東寺太子堂の格子戸と明障子の組み合わせである。格子遣戸は二枚でそれぞれ溝を持つが、明障子は1枚だけである。外が蔀ならば明障子二枚とも採光出来るが、外が遣戸なら片側しか採光出来ない。明障子はその片側だけ用意している[59]
二枚のケース

画像18は元興寺極楽坊の本堂正面の子持障子で、画像16の鴨居の部分である。ひとつの溝に二枚の明障子が入っている。太い樋に二枚の障子をいれると、召合わせ、つまり障子の重なっていない方の端がガタガタしてしまうので、召合わせの縦框(たてがまち)、つまり重なる方の障子の縦枠はそのままにして柱側、重ならない方の縦框をほぼ溝幅に合わせて作る。こうすると、明障子は外れることなく、引き違うことができる[60]
三枚のケース19:十輪院の正面

三枚のケースは奈良の十輪院の本堂正面にある(画像19)。十輪院の正面は五間、柱間寸法は中央の一間だけが9尺、他は全て7尺である[61]。三枚のケースはその9尺の正面中央である。その両脇は普通に子持二枚組みである。この場合は樋、つまり上下の溝は障子2枚分である。両側の障子は室内から見て樋の外側、真ん中の障子は樋の内側で、両側の障子の柱側の縦框を溝幅に合わせる。真ん中の障子は左右どちらも樋の半分の幅である。そして通常はその左右に心張り棒を入れて真ん中の障子を外から開けられないようにしている。開けられるのは真ん中の障子だけで、そのときはどちらかの心張り棒を外し、そちらに開く。
四枚のケース

四枚のケースは最古の方丈建築とされる京都・龍吟庵の方丈である。もっとも現在の四枚組みの襖やショウジでも溝は2本なので1本溝に二枚のケースと大差無いのだが、龍吟庵の四枚は中央の二枚が幅広で、両端の二枚の幅が短く、開くのは中央の幅広二枚だけで、両端の短い障子は実際にはほとんど動かさない[62][63]。その点は十輪院の本堂正面と同じだが、この場合は両端の短い障子は溝を共有する相方が常にあるので、十輪院のように心張り棒を使わずに済む。
鴨居、敷居の樋20:法隆寺・聖霊院の明障子の縦框

なお、画像18の現在なら鴨居に相当する部分は現在と同じように鴨居に掘る場合もあるが、掘るのではなく、十輪院の本堂では内法長押に樋端、つまり土手になる部分を打ち付けたり、あるいは慈照寺東求堂(とうぐどう)では鴨居に樋端を打ち付けたりして掘る手間を避けている[58]

先に平安時代から鎌倉時代には樋は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来、そのため法隆寺・聖霊院などでは遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める[31]と書いたが、同じ聖霊院の子持でない明障子は画像20のように樋は明障子と同じ幅だが、閉じたときに隙間が出来ないように縦框の溝より上の部分の見込みが明障子二枚の二つの樋の土手分を埋めるようにそこだけ幅広に作ってある。この外側は夜間は蔀で塞がれる。

なお、画像20の明障子の桟は現在のショウジの桟とは見付けも見込みも全く違い、格子の桟とほとんど変わらない。これがかつての明障子である。ただし、明障子の縦框は古いもののようだが、敷居と明障子の桟は平鉋掛けで室町後期以降の修理である。建具は傷みが早く、鎌倉時代のものが残るのは極めて希である。法隆寺・聖霊院には側面には鎌倉時代や南北朝時代の建具、具体的には蔀が残るが、この正面の明障子の外側の蔀は江戸時代元禄4年(1691年)の制作である[64]
雨戸

現在のショウジはガラス戸や雨戸で保護されている。例えば和室のショウジの外側は縁側であり、その縁側の外側はガラス戸と雨戸である。ガラス戸が出来る前は木製の雨戸だけだった。その雨戸が登場したのは桃山時代で、記録に登場するのは豊臣秀吉の聚楽第の平面図からである[65]。なお、現存遺構としては二条城黒書院や大広間である。そこでは戸袋が大きく、雨戸だけでなく、昼間用の明障子も一緒に収めていたという[66]
脚注
注記^ 『建築大辞典』には「@平安時代に現れた障屏具の総称。〔そうじ〕ともいう」とある(建築大辞典1993、pp.719-720)。『日本史広辞典』には「屋内の間と間の隔てに立てて人目を防ぐもの。もとは板戸、襖、明障子、衝立、屏風などの総称」とある(日本史広辞典、p.1081)。つまり建具・障屏具の総称ということになる。
^ a b 以降現在の障子は「ショウジ」と記す。
^ a b すずし(生絹)とは生糸を練らないで織った絹織物で薄くて軽い ⇒[1]。一方練絹は練り糸を織った絹織物である ⇒[2]。すずし(生絹)よりは防寒に役に立つ。
^ 『類聚雑要抄』は東三条殿の室礼を記したものなので、この「壁代此定ニテ、七幅」などからは母屋の柱間寸法は10尺ということになる。(川本重雄2015)。

出典

論文の場合、著者名の後の年は論文の初出の年、ページ数は参照した収録書籍(リンク先)のもの。^ a b 迎井夏樹1973、p.70
^ a b c 高橋康夫1985、p.23
^ 高橋康夫1985、pp.19-20
^ a b c 小泉和子2015、p.41
^ 小泉和子2005、pp.56-77
^ 小泉和子2005、p.108
^ 小泉和子2005、pp.132-136
^ a b c 山槐記、治承2年11月12日条・巻1,p.162
^ a b 高橋康夫1985、p.102
^ 建築大辞典1993、p.1478
^ 類聚雑要抄、pp.598-600
^ 年中行事絵巻、p.18上段
^ 関根正直1925、pp.8-9
^ 関根正直1925、下、p.6
^ 類聚雑要抄、p.596
^ 小泉和子1979、p.23
^ 関根正直1925、下、p.7
^ 年中行事絵巻、p.28下段


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