障子
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取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている[39]。平安時代に入って間もない頃には「賢聖障子」という名はまだ無かったが弘仁12年(821年)の内裏式に紫宸殿の母屋と北庇を仕切る樹板障子が出てくる。賢聖障子はその板障子に貼った絹布の上に中国の賢臣32名の絵を書いたものである[40]
脇障子13:『松崎天神縁起』の脇障子の絵

奈良時代から平安時代の寝殿造の初期までは高貴な人の寝室は塗籠の中に立てた帳台だった。それが時代とともに塗籠の外に出て、更に帳台を覆っていた絹のカーテン・帷(とばり)が、パネルとしての障子に変わる。これを障子帳という[41]。脇障子はその障子帳の入り口の脇のパネルである。

画像13は『松崎天神縁起』に出てくる播磨守有忠の居間で、右上で播磨守の妻が畳みの上で横になっている。これは寝ているのではなく居間で夫婦がくつろいでいる図である。妻は寝そべって歌を書いている。妻の背後に黒い漆塗りの柱二本が見えるのが寝室障子帳である[42]。『枕草子絵巻』の鳥居障子(画像12)の鴨居もやはり黒塗りだったが、建物は白木でも道具や建具は漆塗にする。その二本の黒い柱の間に帷が下りるが、ここがその寝室、障子帳の入り口である。二本の黒い柱の外側の短い壁のように見えるものにも軟錦が貼られている。つまりこれはパネルの障子で脇障子という。

このように絵巻などに出てくる軟錦が貼られた狭い袖壁脇障子はそこが固定された障子帳であることを示す記号でもある。固定された障子帳、つまり障子帳構を座敷飾りとしたものが初期書院造帳台構である[43]。なおこの障子帳は室内に単独で立てられたものではなく既に建物に組み込まれている。この段階の障子帳を障子帳構と呼ぶことがある[43]
副障子14:『源氏物語絵巻』の副障子の絵

副障子(そえしょうじ)とは壁に添える装飾用のパネルのことである。やはり軟錦が周囲に貼られる。絵巻に腰の高さの低い副障子が描かれているとそこが常居所(じょういじょう)、つまり居間を表す。絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の画像14、『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)である[44]

先の『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間の画像では、播磨守(左)の背後にあるのが副障子である[45]

12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子は描かれている[46]。鎌倉時代の絵巻では『法然上人絵伝』(参考:畳追い回し)や『慕帰絵詞』(参考:塗籠の図)の中にも描かれている。周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、高級なものでは大和絵が描いてある。『病草子』不眠症の女は主人の部屋ではなく侍女の部屋のためか大和絵ではなく唐紙である。また『春日権現験記絵』の紀伊寺主の屋敷には更に格の低い、軟錦は張られているが無地の副障子が出てくる[47]
杉障子15:『慕帰絵詞』の杉障子の絵

遣戸障子が現在の襖であるとは限らないのがこの杉障子である。単に杉戸とも云い、黒漆塗りの框に杉、檜、槙などの一枚板を嵌め込んでいる[48]。杉は檜と同様に真っ直ぐな木で上質なものは縦に割りやすい。今なら製材機で簡単に板が作れるが、平安・鎌倉時代にそんなものは無く、それどころか大木を縦に切る大鋸(おが)すら15世紀からである。寝殿造の時代には板は割って作り、仕上げは槍鉋(参考:法隆寺iセンター所蔵物)で削る。それで幅広の板まで作っている(参考:春日権現記絵)。

なお木材は杉だけとは限らず杉障子も含めて板障子とも呼ばれるが、杉障子という用語が良くでてくることから杉を使う場合が多かったと思われる。なお、内裏紫宸殿賢聖障子も板のパネルに絹を張り、その上に絵を描いたものであるが[40]、杉障子・杉戸は絹などを貼らずに、板に直接絵を書く。画像15は『慕帰絵詞』にある杉障子である。ここでは建物の外周に使われており、その杉戸には鳥や草木が描かれている。馬もよく描かれる。
雪見障子(上げ下げ障子)

一般的にした半分くらいにガラスがはまっていて、その上に取り付けた障子(内障子)が上げ下げできるようになっているもの。本来の雪見障子とは、下半分にガラスがはまっているだけで、上げ下げできる障子の付かないものだった。[49]
荒組障子(あらぐみしょうじ)

縦横方向の組子の間隔が広く、荒々しいイメージの障子[50]
腰付障子(こしつきしょうじ)

障子の下部に腰板を張ったデザインの障子。腰の部分に横格子を入れた横格子付障子などがある[51]
縦(堅)障子(たてしげしょうじ)

縦方向の組子の間隔が狭く、多く入っているデザインの障子[50]
猫間障子(ねこましょうじ)、摺り上げ障子(すりあげしょうじ)

障子が閉まった状態で猫が出入りできるように、内障子(小障子ともいう)を付けたもの[49]。ガラスをはめているものもあり、雪見障子ということもある[51]
吹寄障子(ふきよせしょうじ)

縦方向の組子を寄せるデザインとしている障子[51]
枡組障子(ますぐみしょうじ)

縦横の組子を方形になるように組んだデザインの障子[51]
水越障子(みずこししょうじ)

全面が格子組になっていて腰板がない障子[52]
横繁障子(よこしげしょうじ)

横方向の組子の間隔が狭く、多く入っているデザインの障子[50]
現在の障子の原型
明障子16:極楽坊の格子遣戸と明障子17:聴秋閣の腰高障子。中央の開いているその両側が腰高障子。

平清盛の六波羅泉殿の指図の左上に、アカリショウシの記載がある。それが壁、遣戸などとともに寝殿の外との隔ての位置に出てくる[53]

鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子はちょうど画像16や画像19のように外側には蔀、または舞良戸が描かれ、現在のショウジ[注 2]に近づくが、『山槐記』にある指図にはアカリショウシとあるだけで、その外側に蔀なり舞良戸なりがあったのかどうかは判らない。従って鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子と同じかどうかは判らない。もちろん指図を書くのは内部の室礼の為で、従って視線は中から、そして明障子の外側までには関心が無かったということも考えられる。

当時の明障子に張られたのは和紙とは限らず、生絹(すずし)も使う[40][注 3]。一方で、その当時から障子紙は現在のもの程度の薄い和紙が使われていたという記録もある。清盛の外孫にあたる東宮、後の安徳天皇が満一歳なって平清盛の屋敷を訪れたときに、清盛に教えられるまま指につばをつけて明障子に穴をあけたことが『山槐記』に記されている[54][55]。感涙のあまり清盛はこの障子を保管するように命じた[56]
腰高障子

鎌倉時代の絵巻に現れる明障子はちょうど画像19のように、の下半分を填めたままにし、蔀の上の部分を開放して、そこから日差しを取り入れる姿が多い。この姿を障子1枚で実現したものが南北朝時代の観応2年(1351年)に描かれた本願寺覚如の伝記絵『慕帰絵詞』の僧房に描かれている。下半分を舞良戸仕立て、上は明障子で腰高障子と呼ぶ。画像17は当初二条城内に建てられた茶屋・聴秋閣であるが、中央の開いているその両側が腰高障子である。この腰高はは少し低く見えるが通常約80cmで、蔀の下半分とほぼ同じ高さである[57]
子持障子18:元興寺極楽坊の子持障子

鎌倉時代以降、蔀や舞良戸の内側に現在の障子に似た明障子がセットで用いられることが多くなるが、鉋が未発達で上下の溝を掘ることが大変だったために、ひとつの溝に二枚、三枚の明障子を填めることがある。これを一本溝子持、子持障子という[58]。子持でない場合もあるが、溝を掘る手間の削減ということで合わせて紹介する。
一枚のケース

溝ひとつに明障子一枚なら子持障子とは云えないが、問題は明障子の溝が2本ではなく1本しかないことがある。実例は東寺太子堂の格子戸と明障子の組み合わせである。格子遣戸は二枚でそれぞれ溝を持つが、明障子は1枚だけである。外が蔀ならば明障子二枚とも採光出来るが、外が遣戸なら片側しか採光出来ない。明障子はその片側だけ用意している[59]
二枚のケース

画像18は元興寺極楽坊の本堂正面の子持障子で、画像16の鴨居の部分である。ひとつの溝に二枚の明障子が入っている。太い樋に二枚の障子をいれると、召合わせ、つまり障子の重なっていない方の端がガタガタしてしまうので、召合わせの縦框(たてがまち)、つまり重なる方の障子の縦枠はそのままにして柱側、重ならない方の縦框をほぼ溝幅に合わせて作る。


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