障子
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柱と柱の間の開口部は8.3尺(2.5m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)もある[34]。その高さは東三条殿など最上級の摂関家の寝殿造でも同じで、現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約2尺(60cm)高いことになる。

その内法長押の位置が鴨居であったら襖は今より幅があるだけでなく、高さまで2尺も高くなってしまう。当時は大工道具も未発達。木材を縦に切る鋸はまだ無い[35]。柱や板は「打割製材」と言って(参考:春日権現記絵)の右側のように割って作る[35]。平鉋(ひらかんな)もない。そんな時代に敷居や鴨居の溝を掘るのは大変で、そのため子持障子(後述)と云って、ひとつの溝に二枚三枚の明かり障子を填めることまである。

遣戸障子は今日から考えると実に武骨で大変重い建具であり滑りも悪い。今の襖なら指一本でも明けられるが、画像11の襖にも遣戸障子を開けるための40?50cmほどのひもが描かれている。また、現存する初期書院造、二条城大広間や園城寺・光浄院客殿の帳代構の襖にも、半ば装飾化はしているが同様に紐がつけられている。中世以前にはどれだけ重かったかがそれだけでも解る。そのため日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に鴨居を取り付ける。小泉和子によると内法長押の下一尺ほどのところに入れるという[21]。それでも襖は今より一尺あまり高い。そして鴨居と内法長押の間はやはり障子、つまりパネルを填める。当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから鳥居障子と呼んだ。

台記[36]に東三条殿(参考:東三条殿平面図)で開かれたかれた因明講仏事の室礼が記されているが、そこには東対西庇南第三間北側の鳥居障子を外し、母屋塗籠の妻戸の上と、その鳥居障子を外した部分に御簾を懸けるとある[37]。画像11の鴨居は黒漆塗が塗ってある。これは道具、建具であることを示している。この当時の障子には軟錦(ぜんきん)が張られている。軟錦とは襖や障子の縁取り装飾として使用された帯状の絹裂地のことである。模様は違うが御簾(画像04)の縦についている帯と同じである。画像11の鴨居の上、内法長押までの間の壁のように見える部分にも軟錦が貼られている。つまりそこも障子である。現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造においては鴨居の上の、今なら塗り壁の部分も障子であり、敷居や鴨居も、その上のパネルも含めて取り外し可能な建具の一部である。
押障子12:『枕草子絵詞』より押障子の絵

画像12は推定13世紀末の『枕草子絵巻』である[38]。右下のパネルが押障子であり、一部に引き違いの襖のような遣戸障子が組み込まれているが押障子が長押の高さまであるパネルであることが良く判る。

内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る賢聖障子がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている[39]。平安時代に入って間もない頃には「賢聖障子」という名はまだ無かったが弘仁12年(821年)の内裏式に紫宸殿の母屋と北庇を仕切る樹板障子が出てくる。賢聖障子はその板障子に貼った絹布の上に中国の賢臣32名の絵を書いたものである[40]
脇障子13:『松崎天神縁起』の脇障子の絵

奈良時代から平安時代の寝殿造の初期までは高貴な人の寝室は塗籠の中に立てた帳台だった。それが時代とともに塗籠の外に出て、更に帳台を覆っていた絹のカーテン・帷(とばり)が、パネルとしての障子に変わる。これを障子帳という[41]。脇障子はその障子帳の入り口の脇のパネルである。

画像13は『松崎天神縁起』に出てくる播磨守有忠の居間で、右上で播磨守の妻が畳みの上で横になっている。これは寝ているのではなく居間で夫婦がくつろいでいる図である。妻は寝そべって歌を書いている。妻の背後に黒い漆塗りの柱二本が見えるのが寝室障子帳である[42]。『枕草子絵巻』の鳥居障子(画像12)の鴨居もやはり黒塗りだったが、建物は白木でも道具や建具は漆塗にする。その二本の黒い柱の間に帷が下りるが、ここがその寝室、障子帳の入り口である。二本の黒い柱の外側の短い壁のように見えるものにも軟錦が貼られている。つまりこれはパネルの障子で脇障子という。

このように絵巻などに出てくる軟錦が貼られた狭い袖壁脇障子はそこが固定された障子帳であることを示す記号でもある。固定された障子帳、つまり障子帳構を座敷飾りとしたものが初期書院造帳台構である[43]。なおこの障子帳は室内に単独で立てられたものではなく既に建物に組み込まれている。この段階の障子帳を障子帳構と呼ぶことがある[43]
副障子14:『源氏物語絵巻』の副障子の絵

副障子(そえしょうじ)とは壁に添える装飾用のパネルのことである。やはり軟錦が周囲に貼られる。絵巻に腰の高さの低い副障子が描かれているとそこが常居所(じょういじょう)、つまり居間を表す。絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の画像14、『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)である[44]

先の『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間の画像では、播磨守(左)の背後にあるのが副障子である[45]

12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子は描かれている[46]。鎌倉時代の絵巻では『法然上人絵伝』(参考:畳追い回し)や『慕帰絵詞』(参考:塗籠の図)の中にも描かれている。周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、高級なものでは大和絵が描いてある。『病草子』不眠症の女は主人の部屋ではなく侍女の部屋のためか大和絵ではなく唐紙である。また『春日権現験記絵』の紀伊寺主の屋敷には更に格の低い、軟錦は張られているが無地の副障子が出てくる[47]
杉障子15:『慕帰絵詞』の杉障子の絵

遣戸障子が現在の襖であるとは限らないのがこの杉障子である。単に杉戸とも云い、黒漆塗りの框に杉、檜、槙などの一枚板を嵌め込んでいる[48]。杉は檜と同様に真っ直ぐな木で上質なものは縦に割りやすい。今なら製材機で簡単に板が作れるが、平安・鎌倉時代にそんなものは無く、それどころか大木を縦に切る大鋸(おが)すら15世紀からである。寝殿造の時代には板は割って作り、仕上げは槍鉋(参考:法隆寺iセンター所蔵物)で削る。それで幅広の板まで作っている(参考:春日権現記絵)。

なお木材は杉だけとは限らず杉障子も含めて板障子とも呼ばれるが、杉障子という用語が良くでてくることから杉を使う場合が多かったと思われる。なお、内裏紫宸殿賢聖障子も板のパネルに絹を張り、その上に絵を描いたものであるが[40]、杉障子・杉戸は絹などを貼らずに、板に直接絵を書く。画像15は『慕帰絵詞』にある杉障子である。ここでは建物の外周に使われており、その杉戸には鳥や草木が描かれている。馬もよく描かれる。
雪見障子(上げ下げ障子)

一般的にした半分くらいにガラスがはまっていて、その上に取り付けた障子(内障子)が上げ下げできるようになっているもの。本来の雪見障子とは、下半分にガラスがはまっているだけで、上げ下げできる障子の付かないものだった。[49]
荒組障子(あらぐみしょうじ)

縦横方向の組子の間隔が広く、荒々しいイメージの障子[50]
腰付障子(こしつきしょうじ)

障子の下部に腰板を張ったデザインの障子。腰の部分に横格子を入れた横格子付障子などがある[51]
縦(堅)障子(たてしげしょうじ)

縦方向の組子の間隔が狭く、多く入っているデザインの障子[50]
猫間障子(ねこましょうじ)、摺り上げ障子(すりあげしょうじ)

障子が閉まった状態で猫が出入りできるように、内障子(小障子ともいう)を付けたもの[49]。ガラスをはめているものもあり、雪見障子ということもある[51]
吹寄障子(ふきよせしょうじ)

縦方向の組子を寄せるデザインとしている障子[51]
枡組障子(ますぐみしょうじ)

縦横の組子を方形になるように組んだデザインの障子[51]
水越障子(みずこししょうじ)

全面が格子組になっていて腰板がない障子[52]
横繁障子(よこしげしょうじ)

横方向の組子の間隔が狭く、多く入っているデザインの障子[50]
現在の障子の原型
明障子16:極楽坊の格子遣戸と明障子17:聴秋閣の腰高障子。中央の開いているその両側が腰高障子。

平清盛の六波羅泉殿の指図の左上に、アカリショウシの記載がある。それが壁、遣戸などとともに寝殿の外との隔ての位置に出てくる[53]

鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子はちょうど画像16や画像19のように外側には蔀、または舞良戸が描かれ、現在のショウジ[注 2]に近づくが、『山槐記』にある指図にはアカリショウシとあるだけで、その外側に蔀なり舞良戸なりがあったのかどうかは判らない。従って鎌倉時代以降の絵巻に現れる明障子と同じかどうかは判らない。


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