上から下まで全て縫うのではなく、中間は縫わずに布を押し開けばその隙間から向こう側が見えるようになっている。例えば『年中行事絵巻』巻3「闘鶏」では主人家族の男は寝殿東三間の御簾を巻き上げてあげて見物し、西の二間には御簾を下ろし、その内側に几帳が建てられている。そこを良く見ると主人の家族なのか女房達なのか、4人の女性が几帳の中程を開いて闘鶏を見物している[12]。
画像05が几帳で、持ち運び可能な台付きの低いカーテンである。その構造は土居(つちい)という四角い木の台に2本の丸柱を立て、横木を渡す。それが几帳の几である。それに帳、つまり帷を紐で吊す。夏は生絹?(すずし)?、冬は練絹を用いた[注 3]。
御簾の内側に立てるのは四尺几帳で、四尺とは土居(つちい)からの高さである。6尺の帷5幅を綴じあわす。表は朽木形文が多いがそれのみではない。裏と紐は平絹である[13]。三尺几帳は帷4幅、主人の御座の傍らなどに用いる。座っていれば高三尺で十分隠れる。松崎天神縁起には、こちらの画像のように、右上に奥方が寝そべって和歌を書いているシーンが描かれているが、その手前にあるのが三尺几帳である。侍女達はその几帳のこちら側に居る。(几帳も参照。)
壁代06:東京国立博物館蔵「類聚雑要抄指図巻」より、壁代の絵。中段に南庇と母屋の境に巻き上げられている。
壁代(かべしろ)は几帳から台と柱を取って、内法長押(うちのりなげし)に取り付けたようなカーテンである。約3mの柱間を覆うのだから横幅も丈も几帳に使うものよりかなり大きい。壁代は綾絹製で併仕立。表は几帳と同じく朽木形文などの模様で裏は白地である[14]。
『類聚雑要抄』巻第四には「壁代此定ニテ、七幅長九尺八寸也」とある[15][注 4]。壁代は通常取り付ける高さより約2尺長い。余った部分はちょうど几帳の裾のように外側に出す。通常御簾の内側は四尺几帳だが、冬場は寒気を避けるために御簾の内側に壁代を掛け、その内側にまた几帳を立てた[16]。
御簾を巻き上げるときは壁代も巻き上げるのを常とし、そのときは木端(こはし)という薄い板を芯にいれて共に巻き上げ野筋で結ぶ[17]。野筋とは帷に垂れ下がっている絹の紐である。几帳にも付いている。画像06の中段に御簾の裏側に巻き上げられた壁代が描かれている。
壁代の一種に引帷(ひきもの)というものもあり、室内を仕切るのに用いる[4]。
軟障と幔07:軟障と幔の絵
画像07は『年中行事絵巻』巻五「内宴」に描かれる綾綺殿(りょうきでん)とその前庭の場面で、ここに軟障と幔の両方が描かれている[18]。
左が軟障(ぜじょう)で、今ならカーテンの一種である。壁代や几帳は中程を押し開けば外が覗けるようになっているが、軟障は完全に縫い合わせて視界を遮り、覗けないようになっている。室内で使い、高級品は大和絵が描かれたりする[19]。
右が屋外で使うのが幔(まん)で、絵はなく太い鮮やかな縦縞である。現在の幔幕と同じである。寝殿造での儀式のとき、南庭の両サイドに張り、儀式の場と裏方を仕切ったりしている姿が『年中行事絵巻』の巻十などにある[20]。 御簾、几帳、壁代なども障子なのだが、建具が多く記録に表れる寝殿造の時代以降にはそれぞれ御簾、几帳、壁代と呼ばれて障子と呼ばれることは少ない。その時代以降は、障子は木の骨組みに布や紙を貼った室内用の間仕切りパネル[21]である。木枠付きの板の場合もある。 パネル1枚に土居を付けて自立させたものが衝立、パネルに接扇(せつせん)という革紐で結んで複数枚繋げたのが屏風で[22]、屏風も衝立も古くは障子である。衝立は日本では障子と呼ぶが、中国では屏風である[4]。屏風は平安時代から屏風と呼ばれ、障子と呼ばれることは少ないが、衝立は日本では常に障子と云われた。例えば内裏清涼殿にある年中行事障子や 昆明池障子、荒海障子はパネルに足の付いた衝立である[23]。 衝立障子の歴史は古く、奈良時代・天平宝字5年(761年)の「法隆寺縁起井資財帳」には、橘夫人の奉納したものの中に障子があるが、これも衝立のようである[2]。この橘夫人の奉納した障子は高さ7尺(2.1m)、幅3.5尺(約1m)で[2]、現在の畳より大きく、現在の住宅の鴨居よりも高い。当時の衝立は現在の衝立のイメージには収まらない。 画像08
パネル状の障子
屏風と衝立08:『伴大納言絵巻』に描かれた「昆明池障子」の絵
『類聚雑要抄』にある室礼09:「類聚雑要抄・巻2」[24]にある東三条殿の指図
画像09は12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二[24]にある東三条殿(参考:東三条殿平面図)の塗籠を除いた寝殿・母屋から南庇にかけての室礼(しつらえ)の指図である。柱(黒丸)の列が横に3列描かれている。一番下の柱列が庇の外側の側柱(参考図:画側と入側)の列で、下から1/3ぐらいにある柱列が母屋南側の入側柱、一番上の柱列が母屋北側の入側柱である。なおこの指図の中の障子に限り太字で示す。
空間の仕切りをまず横の列を下から見て行くと、一番下の庇の南面、簀子縁側には四尺几帳が置かれている。何尺と書かれていなければ四尺几帳である。御簾は書かれてはいないが必ず掛けられる[22]。
次ぎの列、母屋と南の庇の間の隔ても指図には省略されているが、文中に「母屋の簾、四尺几帳の高さに巻き上げる。鉤あり、おのおの壁代を懸ける」[25]とある。この図を含む記事のタイトルは御装束とだけあり、何月のものかは記されていないが、壁代を掛けているので冬場ということになる。
図の一番上の北庇との間は押障子と鳥居障子(画像11)が交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である[26]。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子(襖)がその役目を果たしている。
縦の列、つまり側面を見ると、母屋に置かれた帳の東(右)に棟分戸と書かれているのが塗籠の妻戸で、それを閉じて御簾を掛け、前に屏風が置かれている。屏風は文字には現れないが折れ線の記号で描かれている。帳の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある[27]。南庇は両側(東西)を鳥居障子(襖)で仕切っている。この押障子と鳥居障子はパネルとしての障子、つまり建具である。建築図面にすると塗籠以外には壁の無い、柱だけの室内空間は実際にはこうしてカーテン状の障子、パネル状の障子で仕切って生活空間を作っていた。
(同指図の「障子」以外については>室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)
六波羅泉殿の障子10:平清盛の六波羅泉殿の指図[8]
多くの障子が史料上登場するのは平清盛の六波羅泉殿である[8]。画像10の範囲だけでも遣戸(ヤリト)、蔀(シトミ)、格子(コウシ)、壁(カヘ)、杉障子(スキシヤウシ)、障子(シヤウシ)、明障子(アカリシヤウシ)、鳥居障子(トリイシヤウシ)などが出てくる。以下にパネル状の障子の内、明障子以外のものを先に説明し、明障子は現在の障子の原型として別に述べる。 遣戸は現在の襖の原型であり、国産であって大陸には無い[28]。記録上は10世紀末頃を初見とする[29]。なお舞良戸(まいらど)も遣戸である。立蔀のような格子(画像s06
遣戸障子
現在の襖や障子の上下の樋(溝)の幅は襖や障子の幅より狭く、それで二枚の襖などが開いたときにはきちんと重なるが、この工夫は江戸時代からである[9]。平安時代から室町時代の遣戸はそうはなっておらず、樋は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来る。そのため遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める。実例は法隆寺・聖霊院[31]と、絵巻では『春日権現験記絵』に描かれている[32]。
鳥居障子11:『枕草子絵詞』より鳥居障子の絵
鳥居障子(とりいしょうじ)とは、鴨居と敷居に溝を付けて障子を引き違い戸にした襖(ふすま)のことで、平安中期に誕生した[33]。