障子
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柱(黒丸)の列が横に3列描かれている。一番下の柱列が庇の外側の側柱(参考図:画側と入側)の列で、下から1/3ぐらいにある柱列が母屋南側の入側柱、一番上の柱列が母屋北側の入側柱である。なおこの指図の中の障子に限り太字で示す。

空間の仕切りをまず横の列を下から見て行くと、一番下の庇の南面、簀子縁側には四尺几帳が置かれている。何尺と書かれていなければ四尺几帳である。御簾は書かれてはいないが必ず掛けられる[22]

次ぎの列、母屋と南の庇の間の隔ても指図には省略されているが、文中に「母屋の簾、四尺几帳の高さに巻き上げる。鉤あり、おのおの壁代を懸ける」[25]とある。この図を含む記事のタイトルは御装束とだけあり、何月のものかは記されていないが、壁代を掛けているので冬場ということになる。

図の一番上の北庇との間は押障子と鳥居障子(画像11)が交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である[26]。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子(襖)がその役目を果たしている。

縦の列、つまり側面を見ると、母屋に置かれた帳の東(右)に棟分戸と書かれているのが塗籠妻戸で、それを閉じて御簾を掛け、前に屏風が置かれている。屏風は文字には現れないが折れ線の記号で描かれている。帳の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある[27]。南庇は両側(東西)を鳥居障子(襖)で仕切っている。この押障子と鳥居障子はパネルとしての障子、つまり建具である。建築図面にすると塗籠以外には壁の無い、柱だけの室内空間は実際にはこうしてカーテン状の障子、パネル状の障子で仕切って生活空間を作っていた。
(同指図の「障子」以外については>室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)
六波羅泉殿の障子10:平清盛の六波羅泉殿の指図[8]

多くの障子が史料上登場するのは平清盛の六波羅泉殿である[8]。画像10の範囲だけでも遣戸(ヤリト)、蔀(シトミ)、格子(コウシ)、壁(カヘ)、杉障子(スキシヤウシ)、障子(シヤウシ)、明障子(アカリシヤウシ)、鳥居障子(トリイシヤウシ)などが出てくる。以下にパネル状の障子の内、明障子以外のものを先に説明し、明障子は現在の障子の原型として別に述べる。
遣戸障子

遣戸は現在の襖の原型であり、国産であって大陸には無い[28]。記録上は10世紀末頃を初見とする[29]。なお舞良戸(まいらど)も遣戸である。立蔀のような格子(画像s06)を遣戸に用いることもある。絵巻には現在の襖の原型を含む多くの障子が描かれるが、絵巻物自体が12世紀以降である。それ以前については文献史料しかないが、物語を見ると『竹取物語』『伊勢物語』『土佐日記』には現在の襖のような遣戸は出てこない。『宇津保物語』には壁代は出てくるがやはり遣戸は出てこず、10世紀末頃とされる『落窪物語』に始めて「中隔ての障子をあけたまふに」と襖のような遣戸が出てくる[30]。『源氏物語』にも出てくる。平安時代も末、12世紀頃には、内裏や寝殿の儀式のときの室礼の指図にショウシあるいは障子と書かれるものが多くあり、それらは引違戸の記号で書かれる(参考:東三条殿侍廊指図)。

現在の襖や障子の上下の樋(溝)の幅は襖や障子の幅より狭く、それで二枚の襖などが開いたときにはきちんと重なるが、この工夫は江戸時代からである[9]。平安時代から室町時代の遣戸はそうはなっておらず、樋は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来る。そのため遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める。実例は法隆寺・聖霊院[31]と、絵巻では『春日権現験記絵』に描かれている[32]
鳥居障子11:『枕草子絵詞』より鳥居障子の絵

鳥居障子(とりいしょうじ)とは、鴨居と敷居に溝を付けて障子を引き違い戸にした襖(ふすま)のことで、平安中期に誕生した[33]。画像11の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。寝殿造は今の襖や障子を前提とした建築物ではないので、内法長押(うちのりなげし)の位置が高い。例えば寝殿造の工法を伝える西明寺の例では柱の芯々で9.4尺(2.84m)。柱と柱の間の開口部は8.3尺(2.5m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)もある[34]。その高さは東三条殿など最上級の摂関家の寝殿造でも同じで、現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約2尺(60cm)高いことになる。

その内法長押の位置が鴨居であったら襖は今より幅があるだけでなく、高さまで2尺も高くなってしまう。当時は大工道具も未発達。木材を縦に切る鋸はまだ無い[35]。柱や板は「打割製材」と言って(参考:春日権現記絵)の右側のように割って作る[35]。平鉋(ひらかんな)もない。そんな時代に敷居や鴨居の溝を掘るのは大変で、そのため子持障子(後述)と云って、ひとつの溝に二枚三枚の明かり障子を填めることまである。

遣戸障子は今日から考えると実に武骨で大変重い建具であり滑りも悪い。今の襖なら指一本でも明けられるが、画像11の襖にも遣戸障子を開けるための40?50cmほどのひもが描かれている。また、現存する初期書院造、二条城大広間や園城寺・光浄院客殿の帳代構の襖にも、半ば装飾化はしているが同様に紐がつけられている。中世以前にはどれだけ重かったかがそれだけでも解る。そのため日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に鴨居を取り付ける。小泉和子によると内法長押の下一尺ほどのところに入れるという[21]。それでも襖は今より一尺あまり高い。そして鴨居と内法長押の間はやはり障子、つまりパネルを填める。当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから鳥居障子と呼んだ。

台記[36]に東三条殿(参考:東三条殿平面図)で開かれたかれた因明講仏事の室礼が記されているが、そこには東対西庇南第三間北側の鳥居障子を外し、母屋塗籠の妻戸の上と、その鳥居障子を外した部分に御簾を懸けるとある[37]。画像11の鴨居は黒漆塗が塗ってある。これは道具、建具であることを示している。この当時の障子には軟錦(ぜんきん)が張られている。軟錦とは襖や障子の縁取り装飾として使用された帯状の絹裂地のことである。模様は違うが御簾(画像04)の縦についている帯と同じである。画像11の鴨居の上、内法長押までの間の壁のように見える部分にも軟錦が貼られている。つまりそこも障子である。現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造においては鴨居の上の、今なら塗り壁の部分も障子であり、敷居や鴨居も、その上のパネルも含めて取り外し可能な建具の一部である。
押障子12:『枕草子絵詞』より押障子の絵

画像12は推定13世紀末の『枕草子絵巻』である[38]。右下のパネルが押障子であり、一部に引き違いの襖のような遣戸障子が組み込まれているが押障子が長押の高さまであるパネルであることが良く判る。

内裏の紫宸殿で母屋と北庇を仕切る賢聖障子がもっとも有名であり、柱間に填めて間仕切りにする。取り外し可能なパネルであり、現に紫宸殿では儀式のあるときだけ填めている[39]。平安時代に入って間もない頃には「賢聖障子」という名はまだ無かったが弘仁12年(821年)の内裏式に紫宸殿の母屋と北庇を仕切る樹板障子が出てくる。賢聖障子はその板障子に貼った絹布の上に中国の賢臣32名の絵を書いたものである[40]
脇障子13:『松崎天神縁起』の脇障子の絵

奈良時代から平安時代の寝殿造の初期までは高貴な人の寝室は塗籠の中に立てた帳台だった。それが時代とともに塗籠の外に出て、更に帳台を覆っていた絹のカーテン・帷(とばり)が、パネルとしての障子に変わる。これを障子帳という[41]。脇障子はその障子帳の入り口の脇のパネルである。

画像13は『松崎天神縁起』に出てくる播磨守有忠の居間で、右上で播磨守の妻が畳みの上で横になっている。これは寝ているのではなく居間で夫婦がくつろいでいる図である。妻は寝そべって歌を書いている。妻の背後に黒い漆塗りの柱二本が見えるのが寝室障子帳である[42]。『枕草子絵巻』の鳥居障子(画像12)の鴨居もやはり黒塗りだったが、建物は白木でも道具や建具は漆塗にする。その二本の黒い柱の間に帷が下りるが、ここがその寝室、障子帳の入り口である。二本の黒い柱の外側の短い壁のように見えるものにも軟錦が貼られている。つまりこれはパネルの障子で脇障子という。

このように絵巻などに出てくる軟錦が貼られた狭い袖壁脇障子はそこが固定された障子帳であることを示す記号でもある。固定された障子帳、つまり障子帳構を座敷飾りとしたものが初期書院造帳台構である[43]。なおこの障子帳は室内に単独で立てられたものではなく既に建物に組み込まれている。この段階の障子帳を障子帳構と呼ぶことがある[43]
副障子14:『源氏物語絵巻』の副障子の絵

副障子(そえしょうじ)とは壁に添える装飾用のパネルのことである。やはり軟錦が周囲に貼られる。絵巻に腰の高さの低い副障子が描かれているとそこが常居所(じょういじょう)、つまり居間を表す。絵巻での初出は平安時代(12世紀前半)の画像14、『源氏物語絵巻』「宿木」段の清涼殿朝餉間(あさがれいのま)である[44]

先の『松崎天神縁起』の播磨守有忠の居間の画像では、播磨守(左)の背後にあるのが副障子である[45]

12世紀半ば過ぎの『病草子』「不眠症の女」にも副障子は描かれている[46]。鎌倉時代の絵巻では『法然上人絵伝』(参考:畳追い回し)や『慕帰絵詞』(参考:塗籠の図)の中にも描かれている。周囲に軟錦(ぜんきん)が貼られ、高級なものでは大和絵が描いてある。『病草子』不眠症の女は主人の部屋ではなく侍女の部屋のためか大和絵ではなく唐紙である。また『春日権現験記絵』の紀伊寺主の屋敷には更に格の低い、軟錦は張られているが無地の副障子が出てくる[47]
杉障子15:『慕帰絵詞』の杉障子の絵

遣戸障子が現在の襖であるとは限らないのがこの杉障子である。単に杉戸とも云い、黒漆塗りの框に杉、檜、槙などの一枚板を嵌め込んでいる[48]


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