孫堅はその後も董卓との戦いを優勢に進めた。董卓は形勢不利と見て、洛陽の町を焼き払って長安に撤退した。
孫堅は洛陽に入り、皇帝達の陵墓を修復した。『江表伝』によれば、この時、孫堅は伝国の玉璽(皇帝の印璽)を見つけたという。その後、孫堅は魯陽まで後退した。 この時、孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周?を豫州刺史として派遣したので、孫堅と袁術は周?・周マ・周昂と豫州を奪い合い戦うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は崩壊し、多くの武将が己の勢力伸張を目指す群雄と化した。後漢の支配力は大きく低下し、戦乱の時代が本格的に始まったのである。 劉岱と橋瑁が反目し、劉岱が橋瑁を殺したり、曹操が胡毋班の遺族とともに王匡を殺したりするなど、反董卓連合軍は不協和音が目立った。『三国志』司馬朗伝によれば、反董卓連合軍の将軍たちはあまり協力することが出来ず、兵を放って略奪を行う者もおり、多くの人民が巻き込まれて死んだという。 虎牢関の戦いは、『三国志演義』で袁紹が指揮を執る「反董卓連合」と董卓軍が洛陽郊外の虎牢関において一時的に衝突する架空の戦いである。 緒戦は連合軍が有利であったが、猛将といわれる呂布や華雄の奮戦により董卓軍は危機を脱す。しかし、連合軍の関羽が董卓軍の華雄を討ち取るなど連合軍が優勢となり、董卓は洛陽から長安に遷都してしまう。 なお、関羽の主君である劉備は、反董卓連合軍に参加したとする史料(『英雄記』)もあるが、正史の「先主伝」では参加したかについては書き記していない。
反董卓連合軍の崩壊
三国志演義における虎牢関の戦い詳細は「虎牢関の戦い」を参照