陸遜
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陸遜は上奏し、諸将に農地を開墾されるよう願ったところ、孫権はその意見を褒め、自らも実践するよう取り計らった[12]。冬、陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに、卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。孫権は役人に命令して法令をすべて書き写し、郎中に命じて陸遜と諸葛瑾の元にそれを送り、加除修正させた[12]

228年(黄武7年)、孫権が?陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を指揮する曹休を石亭に誘い出させた上で、孫権は陸遜を大都督に任命し、曹休追討の指揮を執る事を命じた。そのことについて、陸機は「仮公?鉞,統御六師及中軍禁衛而摂行王事,主上執鞭,百司屈膝(陸遜が?鉞を授けられ、禁軍や六師を率いて王の役割を代行する。主上は自ら鞭を執って引見した。百官は膝を屈した)」と絶賛した。また、諸将の中で仮節を与えられた者は何名かいたが、仮黄鉞を与えられたのは呉では陸遜だけである。

陸遜は、朱桓・全jにそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊の指揮を任せ、自身は中央の軍の指揮を執り、3部隊に分かれて同時に進軍した。曹休は騙された事に気づいたが、自身が指揮する軍勢が大軍であった事からそのまま呉軍との交戦に及んだ。曹休は伏兵を配置していたものの、陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦って大いに破り、追撃をかけて夾石まで軍をすすめ、1万余の兵を斬ったり捕縛し、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を手にいれた(石亭の戦い)。曹休は賈逵朱霊王?の援護により脱出することができたが、敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去した。

229年(黄龍元年)、孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍[13]・右都護の官を授かった。その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡[14]の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。孫慮が闘鴨に熱中していたため、これを直々に注意し、また、射声校尉の孫松が孫権の寵愛をいいことに職務に怠慢であった事から、係の役人に罰を与えるなど、皇子・公子達の教育係も務めた。陸遜は刑罰より礼を重んじるべきだと考えており、当時流行していた魏の劉?の議論を批判し、その議論にかぶれていた南陽の謝景を叱責した。また、孫権にも上奏し、厳罰化の傾向を戒め、一度罪を犯した者にもなるべく機会を与えるよう嘆願した。

孫権が東方の島の経略に心を奪われ、夷州や朱崖を占領するため衛温諸葛直の軍を派遣しようとしたときは、無用であると諫言したが、孫権はこれを聞かずに出兵させた。結局、陸遜の言葉通り、成果は得られなかった。また、遼東公孫淵を服属させようとしたが、公孫淵は呉に反旗を翻したため遼東に親征しようとした。陸遜は、これにも反対した。孫権はこの進言は受け入れた。

234年(嘉禾3年)5月[15]、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。陸遜は腹心の韓扁という人物を送り、孫権に戦況を報告させたが、韓扁は?中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまった事に動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示した。陸遜と諸葛瑾はその作戦に従い、無事に撤退することができた。

陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させた。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た。結局、陸遜と諸葛瑾らは江夏郡の安陸・石陽城を攻め落とした

魏の江夏太守の?式は軍勢を率いてしばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休文聘の子)とは不仲であった。陸遜はその事を聞き、?式の呉への投降要望に対して迎える準備ができたという偽手紙を送って?式を動揺させた。その様を見て江夏の将兵は?式への信頼を失い、しばらくして?式は免職となった。

237年(嘉禾6年)正月、将軍胡綜が、奔喪には厳罰で対応すべきと提議した。丞相顧雍は大辟に従うよう上奏した。その後、呉県県令の孟宗が母の喪に奔赴し、葬後に自ら武昌に拘置されて聴刑した。陸遜はその素行を陳べて請い、孫権はかくして孟宗の罪を一等減じた。2月、前年から反乱を起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った[12]

同年、中郎将の周祗という人物は?陽において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜は?陽の住民の民心は不安定である事から賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した。結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され、豫章や廬陵の不服従民もこれに呼応し、周囲の諸県の治安も悪化した。陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8000人徴兵した。陸遜は陳表に偏将軍・都郷侯の官位爵位を授けた。長江沿岸の章?の守備に当たった[16]

この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。
晩年と最期

孫権が呂壱を信任し国政を乱すと、太常潘濬と協力し、これを諌めた。孫権はのちに群臣達に陳謝した。

241年(赤烏4年)夏4月から6月の、孫権が全jらに命じて起こした戦役(芍陂の役)に関する記述は見られないが、戦後となる秋8月には、江夏の?で城を築いた記録がある[12]

244年(赤烏7年)春正月に顧雍の後を継いで丞相となった。荊州牧・右都護・領武昌事の職務も引き続き担った。

このとき、既に孫登は死去しており、代わって皇太子となっていた孫権の三男の孫和と、四男の魯王孫覇がそれぞれ役所を持ち、各地の豪族も2人の宮にそれぞれが子弟を送り込む事態となっていた。全jの報告を受けた陸遜は、豪族達に勝手な行動はさせないようにと述べた。のちに全jもまた次男の全寄を魯王の役所に送り込み、全寄が皇太子の臣下と事をかまえるようになっている事を聞き、「あなたは金日?を手本とされず全寄君を擁護しておられるが、いずれ一門に禍が及ぶ事になるでしょう」と批判する手紙を送った。こうして全jと対立するようになった。

後継者問題が紛糾し、孫和廃立の声が強くなると、陸遜は上奏して嫡子と庶子の区別をつけるように述べた。さらに首都の建業に出向いて孫権を直接説得しようとした。しかしそれは許されなかった。また、陸遜の甥である顧譚顧承姚信は太子側についたということから流罪となった。また太子太傅の吾粲は陸遜に幾度も手紙を送っていたため獄に下されて死んだ。孫権は陸遜に譴責の書状を何度も送り、憤慨の中で陸遜は死去した(二宮の変)。享年63。

楊竺[17]は陸遜に関する二十条の罪状を告発した。これら陸遜に対する疑念は、子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻り、宮廷に参内したときにすべて晴らした。251年(太元元年)に陸抗が病気治療のために都に上り、病が癒えて任地に戻るときには、孫権は陸抗の手をとって涙を流して謝罪し、陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で、自分の送った手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願した。


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