陸軍士官学校_(日本)
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「陸軍予科士官学校」の独立後は本科たる「陸軍士官学校」のみを指して陸士と称されることもあるが、あくまで予士および航士も「陸軍士官学校」である。

陸士と関係する学校としては以下のものが存在する。

陸軍幼年学校(陸幼)は幾度の変容があるが、陸士が予科・本科制度となった1920年代以降は将校候補者すなわち将来は陸士の予科に入校し生徒となる者を、若年時から「純粋培養」する旧制中学校相当の養成機関である。陸幼生徒は陸士の予科生徒と合わせて「将校生徒」と呼称された。陸士の予科の生徒は大別してこの陸幼出身者と一般の中学出身者からなる。詳細は「陸軍幼年学校」を参照

陸軍大学校(陸大)は主に参謀を養成する高等教育機関であり、選抜された陸士卒(己種・丁種学生を含む)の中尉・少尉が入校する。詳細は「陸軍大学校」を参照

陸軍経理学校は主に経理部の主計将校(各部将校)を養成する教育機関であり、現役主計将校を養成する陸経の課程は現役兵科将校を養成する陸士と同格の存在であった。1935年に陸士に準ずる予科・本科制に改正し「経理部士官候補生」の制度を導入、陸士の兵科士官候補生(陸士生徒)と同様の待遇を施している。陸士より要求身体能力(主に視力)が緩く、現役主計将校の召募人数は少なかったこともあり入校倍率は極めて高倍率であった。なお、陸経ではほかに甲種幹部候補生出身の予備役主計将校の養成も行っているが、これは経理部士官候補生の制度とは全く異なる。詳細は「陸軍経理学校」を参照

満洲国陸軍軍官学校(満洲帝国陸軍軍官学校)は満洲国軍(満洲帝国軍)の軍官学校(士官学校)であり、一定数の日本人日系生徒が予士から進学しているほか、満洲人・朝鮮人・蒙古人からなる現地の満系生徒の優秀者は陸士に留学した。詳細は「満洲国陸軍軍官学校」を参照

1938年(昭和13年)以降、甲種幹部候補生出身者を生徒とし、予備役兵科将校を養成する教育機関として陸軍予備士官学校(予備士)が複数校設置されている。「予備役」兵科将校を養成する陸軍予備士官学校は、「現役」兵科将校を養成する陸軍士官学校(および士官候補生を養成する陸軍予科士官学校)とは全く異なる別種の士官学校である。詳細は「陸軍予備士官学校 (日本)」を参照
生徒・学生

制度にも幾度の変容があるが、1937年の改制移行は概ね予科の生徒は「生徒」(「陸軍予科士官学校生徒」・「将校生徒」)と、一方で本科の生徒は特に「士官候補生」(「候補生」)と称する。そのため予科生徒は校内では「田中生徒」、本科生徒は「佐藤候補生」と、予備役将校・准士官・下士官からなる「学生」は元の階級に拘らず「山田学生」などと呼称され校内では平等に扱われる。これら生徒・学生は陸士校歌の第2番歌詞では「市ヶ谷台の若」(「相模原の若桜」・「振武の台の若桜」)と形容されている。

生徒は生徒隊のもと各中隊の各区隊に属し(第1中隊第2区隊等)、それぞれ将校である中隊長と区隊長がこれを率いる。区隊長は全陸軍から選抜された大尉・中尉であり、区隊三十数名程の生徒に触れ合う存在であるため直接至大な影響を与えていた[注 2][1]。予科では品行方正かつ学術優秀な第2学年の上級生が命ぜられ、各区隊ごとに1名ずつ、第1学年の下級生と寝台・自習机を共にし日夜指導を行う指導生徒(旧称は模範生徒)制度がある[2](陸幼では類似する模範生徒の制度があった)。また、取締生徒と称す、各区隊ごとに生徒が順番に一週間交代で就き自治を行う週番勤務制度もある[3]
「市ヶ谷台」・「相武台」・「修武台」・「振武台」

学校住所は、長らくは本科・予科共に東京の「市ヶ谷台」に所在していたが、1937年に本科(陸士)は神奈川県座間へ(航士は埼玉県入間に設置)、予科(予士)は1941年(昭和16年)に埼玉県朝霞へそれぞれ移転している。陸士自体の通称でもあった「市ヶ谷台」の名に倣い、座間移転後の陸士には「相武台」、入間に新設の航士には「修武台」 朝霞移転後の予士には「振武台」の名が、それぞれ当時の大元帥たる昭和天皇から与えられている。陸士の生徒・学生を指して「台上の人」という呼称はこれに由来する。この慣習は陸士以外の将校および将校候補者の養成学校にも取り入れられ、陸軍経理学校の「若松台」、東京陸軍幼年学校の「健武台」、仙台陸軍幼年学校「三神峯台」、名古屋陸軍幼年学校の「観武台」、大阪陸軍幼年学校の「千代田台」、広島陸軍幼年学校の「鯉城台」、熊本陸軍幼年学校の「清水台」、および満洲帝国陸軍軍官学校の「同徳台」がある。

陸士・予士が去った市ヶ谷台には陸軍省参謀本部教育総監部陸軍航空総監部といった「省部」が三宅坂から移転し帝国陸軍の中枢となった。市ヶ谷台は敗戦後はアメリカ軍による接収を経て、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・海上自衛隊市ヶ谷地区・航空自衛隊市ヶ谷基地となり、東部方面総監部統合幕僚学校陸海空各幹部学校などを配置。2000年(平成12年)5月には防衛庁(現防衛省)本庁が檜町地区から移転、現在の市ヶ谷台は防衛省・統合幕僚監部陸上幕僚監部海上幕僚監部航空幕僚監部などが所在する、日本の国防の中枢となっている(防衛省市ヶ谷地区)。相武台(座間の陸士)はアメリカ陸軍キャンプ座間の一部および陸上自衛隊座間駐屯地、振武台(朝霞の予士)はアメリカ陸軍キャンプ・ドレイクを経て陸上自衛隊朝霞駐屯地、修武台(入間の航士)はアメリカ空軍ジョンソン基地を経て航空自衛隊入間基地である。このほか、予備士官学校であるが久留米第一陸軍予備士官学校跡地が陸上自衛隊幹部候補生学校前川原駐屯地)となっている。

なお、神奈川県座間市と同県相模原市南区に残る地名である「相武台」は、文字通り座間時代の陸士の賜名が由来である。また、小田急電鉄小田原線相武台前駅」および、東日本旅客鉄道(JR東日本)相模線相武台下駅」の両駅名も同様である。
遺構市ヶ谷記念館

防衛省市ヶ谷地区には陸士の座間移転直前となる、1937年6月に建設された陸士本部(陸士の座間移転後は予士本部)が部分移設ののち現存しており、内部に同じく陸士時代の大講堂・便殿の間・校長室(予士の朝霞移転後は陸軍省が入居し陸軍大臣室)を有する市ヶ谷記念館として一般公開(市ヶ谷台ツアー)されている[4]

キャンプ座間には、陸士(相武台)時代の大講堂などが現存し改装を経て在日アメリカ軍が現役で使用している。また、座間時代の陸士(相武台)にあった皇族舎(東久邇宮彰常王賀陽宮邦寿王が利用した宿舎[5])が、1978年(昭和53年)に陸自によってキャンプ座間から予士(振武台)があった朝霞駐屯地へ移築され、予士の史料を展示する振武臺記念館(振武台記念館)となっている[6]。同記念館は、隣接する陸上自衛隊広報センターの来館者に内部が公開されている[7]

入間基地には、航士(修武台)時代の学校本部が修武台記念館としてあったが、老朽化のため2005年(平成17年)に閉館し解体。


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